この関係、よくわからない。
ポピュリズムというと馬鹿にするけれど、民主主義とは
そもそもポピュリズムではないかと思う。
普通の人が主役、普通の人の幸せを目指すものが、民主主義と
理解するからだ。
現実には、普通の人が直接統治できないので、指導者に統治を
託するのが、間接民主主義。
指導者は、普通の人の幸せを現実化するもの。
普通の人というのは、具体的な生きている人々であり、抽象的な人ではないはず。
具体的な人であるから、当然、生きている土地(国)を無視することは
できないはず。むしろ、人間は、土地に足をつけて生きているのだから、
土地(国)こそが基礎。
指導者になると急に偉くなったと錯覚し、空中を自由自在に動き、支配できると
ばかりに、抽象的な自由などを論じるが、そういう抽象的人間はいない。
無国籍の人は、どこからも保護されない。
確かに、エリートとなれば、飛行機で動く機会が多くなるので、国境などないかの
ように感じるのかもしれない。どこにも通じるきれいごとをいうようになる。
でも、選ばれるためには、どこかの国に所属していなければならない。
そもそも、どこにでも通じるものなどない。どこでも通じると思うものは
結局、どこでも通用しないと同義である。
民主主義のエリートは、自分の好きにできると思うらしい。
ということで、二重基準ができる。
自分に適用される基準と自分以外に適用される基準。
自分に適用される基準は自分で作る。ここにはいわゆる民意は反映されない。
治外法権のようなもの。
自分に拘り始めると、自分以外のところはどうでもよくなるので、独裁者と同じに
なりがち。自分以外の所ではきれいごとを言いがちになるので、二重基準の乖離が
甚だしくなりがちである。
一方、独裁者は、自分からスタートするが、生きた人間を支配する以上、その意思を
完全に無視することはできない。ということで、自分を護るために、民意を尊重せざるを
得なくなる。生きている人間をである。
世界をポピュリズムの大波が襲っている。
第二次大戦後の民主主義が機能不全になったからである。
世界は、西欧の、地球規模でいえば、ごく限られた豊かな社会・基準・人間を意味していた。
70年経ち、旧世界(西欧)以外の新世界の国・人達、そして旧世界でも
無視されてきた層が、政治の舞台に登場してきた。普通の人のすそ野が物凄い勢い‣量で拡大した。
既成の政治家・機構・思想がそういう人たちの声を代弁できなくなったのである。
本来の民主主義(直接民主制・大衆の声)が立ち上がったのである。
混乱期である。混乱期は実力主義で原理原則などない。
戦後70年も、当初は混乱していた。そこから秩序が生まれてきた。
でも秩序は出来あがったと思った瞬間に、つまり頂点に達すると、下り坂になる。
そして、結局は、死に至るのである。
人間も、社会も同じである。
しかし、新しい命が生まれてくるように、新しい社会・新しい仕組みが生まれてくるものである。
ポピュリズムを馬鹿にしてはいけない。
行き詰った社会を変えようとする人間の健全な本能の爆発である。
われわれは、新しいチャンスを得ているのである。