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先祖を探して

Vol.64 琉球時代の地方役人の階級

琉球王朝の時代には位階制度というものがありました。当家のご先祖様も琉球統一後にはこの位階制度の中の大親子という階級であったようなのですが、それがどのようなものであったのかを調べてみました。

第二尚氏王統の第3代・尚真王(在位1476年 - 1526年)に位階制度の基本が確立され、1509年に金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって階級別を定め、1524年には六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定されています。

これは制度的に身分階級を示したものであり、大きく四段階に分かれていました。(王族、上級士族、一般士族、平民)士族は『一般士族』であっても努力しだいでは『上級士族』の称号「親方」(ウエーカタ)まで昇進することができた(ただ、よっぽどのことがない限り難しかった)が、平民{町百姓、田舎百姓、筆算人(地方役人)}から士族への昇格はまず皆無に等しかったようです。

その後、18世紀初頭に「琉球国中山王府官制」(1706年)が制定され、九品十八階の位階制度が確立し、1732年には、蔡温らによって位階昇進の細目を記した「位階定」が制定されたそうですが、琉球本島以外の奄美諸島の島々は1609年以降は薩摩の支配下で、琉球王府から役人に任命されるのは1623年8月25日に廃止されています。それ以降は、薩摩藩から島の島民の中では最高職の与人以下、いくつかの役職が定められました。

その琉球時代の階級制の中で、地方役人の階級をざっくりまとめるの以下の表のようになりました。


一般的な地方役人はこのようになっていたようですが、離島は若干違うところもあったようで、沖永良部の場合は、和泊町誌などを読むと、おそらく土頭代などは島にはおらず、捌理の中の首里大屋子が島を統治していたようです。この大屋子は大親子と書かれている場合もあります。当家のご先祖が就いていた「首里大親子」というのは、地方役人のトップといった感じですね。銀の簪も遺品として残っております。
そして首里大屋子は琉球から派遣される場合が多かったようですが、当家のご先祖政のように、島に代々居住していて任命された場合もあったようです。
琉球本島からの派遣組と島在住者の大屋子。どのように違っていたのかは定かではありません。
島に2人大屋子がいたというような見解もあるようなので、1人は琉球本土からの派遣、1人は島の者といった任命だったかもしれませんね。
石上英一先生が書かれた奄美諸島編年史料という著書があります。
奄美諸島や沖縄県に残っている古文書から、その情報をまとめた書籍です。上・下の2巻あり、膨大な情報が書かれています。
その中から沖永良部の大屋子に関係しそうな情報を拾ってみましたので、別記したいと思います。




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