本部太原(もとぶてーはら:平原とも書く) は北山滅亡の時に主人であった北山王を裏切った人物です。
このいきさつは、いかのように伝えられています。
時の王であった攀安知は、誰もが知る英雄であることに間違いはない。しかし知性に乏しく徳がない。だから部下の将卒の中で、王の攀安知に心服して従っている者は、きっと少ない筈だ。
大将の太原もまた、豪傑として世に知られてはいるが、これもまた勇を誇るばかりの全く智が足りない小人物だ。昔からいわれるように、小人は、利をもって誘惑すれば、いと易しとされるから、思い通りになれば、やがてきっと簡単に我が軍に靡くに違いない。
大将の太原もまた、豪傑として世に知られてはいるが、これもまた勇を誇るばかりの全く智が足りない小人物だ。昔からいわれるように、小人は、利をもって誘惑すれば、いと易しとされるから、思い通りになれば、やがてきっと簡単に我が軍に靡くに違いない。
中山の尚巴志王はこのように自分の軍勢に語り、臣下の羽地按司を呼び寄せ、自分の考えを伝えながら、二人は細かい点まで行き届いた策略を練ったといいます。
その計画を実行に移すべく、羽地按司はある日、夜陰に紛れて城内に忍び込むことに成功。そして早速、太原に沢山の金銀を贈りながら、中山に内通するよう、利をもって諭したということです。尚巴志が見抜いていたように、その計略は見事に功を奏し、翌日には、太原が攀安知王に向かって、
「いつまでも城から出ずに戦わないならば、敵は、我々北山を臆病者と思い、また我が軍の士気も落ちます。代わる代わる私と王が外に出て戦って、中山の兵に、何ものをも恐れぬ北山武士の武勇の姿を思う存分に見せつけてやりたいものです。」と太っ腹な発言をしたのです。
その計画を実行に移すべく、羽地按司はある日、夜陰に紛れて城内に忍び込むことに成功。そして早速、太原に沢山の金銀を贈りながら、中山に内通するよう、利をもって諭したということです。尚巴志が見抜いていたように、その計略は見事に功を奏し、翌日には、太原が攀安知王に向かって、
「いつまでも城から出ずに戦わないならば、敵は、我々北山を臆病者と思い、また我が軍の士気も落ちます。代わる代わる私と王が外に出て戦って、中山の兵に、何ものをも恐れぬ北山武士の武勇の姿を思う存分に見せつけてやりたいものです。」と太っ腹な発言をしたのです。
長い籠城の末のことであり、しきりに腕がなって押さえきれなかった北山王は、よもや腹心の部下に騙され、裏切られるとは露程も知らず、その進言を喜んで聞き入れてしまいました。そして早速、城門を開くやいなや、自分自ら撃って出たのでした。
この時、王に従った兵士も皆、この期を待ちに待っていた選り選りの強者揃いで、縦横無尽に敵を攻めたて、多くの敵の将兵を斬り刻みました。その勢いたるや、まるで嵐を前に木の葉が舞うようであり、寄せ手であった中山の兵の大半は、みるみる討ち破られていくしか術がありませんした。
しかしその間に太原は、王妃や侍女達が詰める院内に駆け込んで、「王が、敵の刃にかかり、討ち死にされました。」と言い放ったのでした。
この時、王に従った兵士も皆、この期を待ちに待っていた選り選りの強者揃いで、縦横無尽に敵を攻めたて、多くの敵の将兵を斬り刻みました。その勢いたるや、まるで嵐を前に木の葉が舞うようであり、寄せ手であった中山の兵の大半は、みるみる討ち破られていくしか術がありませんした。
しかしその間に太原は、王妃や侍女達が詰める院内に駆け込んで、「王が、敵の刃にかかり、討ち死にされました。」と言い放ったのでした。
この誠しやかな嘘に、そこにいた人々は、見事に騙されました。
中には、襷十字に、甲斐甲斐しく長刀握りしめ、今にも敵を討とうと飛び出そうとする女までいました。しかしながら、唯一頼みとしていた王が、討ち死にしてしまった今となっては、これから何の生き甲斐あって、生きながらえることなど出来ようかと、王妃をはじめとする内院すべての女、子ども達はそう思ってひとり残らず自害して相果ててしまったのでした。
中には、襷十字に、甲斐甲斐しく長刀握りしめ、今にも敵を討とうと飛び出そうとする女までいました。しかしながら、唯一頼みとしていた王が、討ち死にしてしまった今となっては、これから何の生き甲斐あって、生きながらえることなど出来ようかと、王妃をはじめとする内院すべての女、子ども達はそう思ってひとり残らず自害して相果ててしまったのでした。
一方で、敵を蹴散らし、奮戦著しい王は、一息つこうと、内院に戻って、そこで夢にも想像しなかた惨状を目の当たりにしました。王妃、子ども、侍女達の自害した有様を見て、気が狂わんばかりになりながら太原のところにゆき、怒り心頭して、「この有様(ありさま)は、一体どういうことなのだ。」と怒りつけました。
すると、即座に剣を抜きながら太原が言うことには、「今更、王は無道なのだ。我々北山は中山に降伏した。」と。
攀安知王、即座に太原の謀反を知るやいなや、刃向かう太原と渡り合い、斬って捨てました。そして、自害した王妃、子ども、侍女達を前にして、恭しく合掌しながら、長い間、悔し涙を流し続けました。
すると、即座に剣を抜きながら太原が言うことには、「今更、王は無道なのだ。我々北山は中山に降伏した。」と。
攀安知王、即座に太原の謀反を知るやいなや、刃向かう太原と渡り合い、斬って捨てました。そして、自害した王妃、子ども、侍女達を前にして、恭しく合掌しながら、長い間、悔し涙を流し続けました。
しかし、時既に遅く、寝返った太原と内通して城に忍び込んでいた中山兵が、この時とばかり一斉に、あちこちの城の建物に火を放ちました。更に折からの強風のため、炎は天を焦がす勢いで、みるみる燃え上がったのでした。
攀安知王は、日頃から信心していた城内の護国の社の前に行き、祀ってあった神石を蹴り飛ばして、「貴様は、目頃、あれ程崇めて、祀ってやったというのに、何故、我々を庇護しないか。もう、この北山は滅亡だ。貴様だけは絶対に生かしては置けん。」
そう言うなり、愛用の剣千代金丸を振り上げるなり、叩き斬ったのでした。すると石は、四つの石塊になりました。
それから王は、返す力で、自らの首を刎ねて死のうとしました。
しかし、流石に神霊が宿る宝剣千代金丸は、主人を殺すに忍びなかったとみえ、忽ち鈍刀となって斬れなくなりました。刀の意志を知った王は、千代金丸を、城の後方に流れる志慶間川に投げ捨てるなり、別の刀で自害して果てたのでした。
攀安知王は、日頃から信心していた城内の護国の社の前に行き、祀ってあった神石を蹴り飛ばして、「貴様は、目頃、あれ程崇めて、祀ってやったというのに、何故、我々を庇護しないか。もう、この北山は滅亡だ。貴様だけは絶対に生かしては置けん。」
そう言うなり、愛用の剣千代金丸を振り上げるなり、叩き斬ったのでした。すると石は、四つの石塊になりました。
それから王は、返す力で、自らの首を刎ねて死のうとしました。
しかし、流石に神霊が宿る宝剣千代金丸は、主人を殺すに忍びなかったとみえ、忽ち鈍刀となって斬れなくなりました。刀の意志を知った王は、千代金丸を、城の後方に流れる志慶間川に投げ捨てるなり、別の刀で自害して果てたのでした。
本部太原の裏切りによって滅亡した北山ですが、攀安知も本部太原も尚巴志王にさんざんなことを言われてますね。しかも案外それが的確であったとは。
尚巴志は人を見る目があったのでしょうかね。
そしてこの裏切り者の太原のお墓が、今帰仁の運天にあったようです。
お爺さまの記録を見ると、昭和26年頃に先祖調査のために沖縄に渡り2年ほど沖縄に滞在しています。その期間中に、運天にある太原のお墓を訪れたようです。
そのお墓で太原の頭蓋骨を見たと書かれているのです。
おそらくそのお墓には誰か案内人がいたと思うのです。その人によって見せてもらったのでしょう。
運天港に隣接する丘陵の崖に「ムムジャナバカ(百按司墓)」があります。崖の中腹に所在する洞窟を利用した古墓の内部には、現在も厨子甕が数百年前から変わらぬ姿で安置されています。墓の名称である「按司(あじ)」は沖縄のグスクを築いた有力者の呼び名で「ムムジャナ(百按司墓)」は「数多くの按司の墓」を意味しており、1991年に「今帰仁村」の文化財に指定されています。墓には「北山王」とその由緒ある一族、または第一尚氏「北山監守」の貴族が葬られると伝わっているそうです。
滅ぼした側と滅ばされた側が同じ場所に葬られているというのが少し不思議な感じがしますが、これも琉球スタイル?
この中に本部太原のお墓があるのか調べてみましたが、詳細は分からずでした。今となっては不明なのか、それとも運天の別の場所にあるのか。
お爺が頭蓋骨を見たのは間違いないので、いつかどこかでこの話もまた新しい情報が入ってくるかもしれません。
新年がスタートしましたが、今年の先祖調査はどうなっていくのか?
新年早々に島の協力者の方は関連場所の散策を始めてくださり、興味深い情報も寄せてくださっています。
小さい小さい沖永良部島ですが、当家のご先祖さまが生きた1300年代後半から今に至る約600年ほどの間には、本当に様々な歴史がそこにはあります。
今に残る遺跡や口碑伝承など、いろいろな手掛かりから島の歴史や当家のご先祖様のことをいろいろ考察しながら今年もお伝えしていこうと思います。
今年もよろしくお願いします!