お墓の歴史を調べていく中で、『内城墓』と呼ばれていた墓があったことが分かりました。
内城といえば世之主の城があった周辺地区の呼び名です。昔は内城村、現在は大字内城です。その地区の名称で呼ばれたお墓ですから、当然ながら内城地区に存在していたお墓と思いきや、実は全く違う場所に存在していたのです。
それはあの義本王のお墓があるとされる伊座敷泊の海岸なのです。
(義本王のお墓などについてはVol.371~375を参照ください。)
あの海岸沿いにある彫り込んだ洞窟が『内城墓』と呼ばれていたのだといいます。海岸には5つほどの洞窟がありますが、そのすべてがお墓だったのか?一部だけだったのかは分かりませんが、ここにあった洞窟墓が内城墓と呼ばれた風葬墓だったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/aa/cce9ffc9f466aa8fefb2d96efe72f336.jpg)
この洞窟ですが、私はここを硫黄の保管庫だったのではないかと考察していました。(Vol.371~375)それは、ここが交易品の保管場所であったという伝承もあったからです。この場所はリーフの中の海岸沿いでビーチもありますから、どちらとして使ったにせよ使い勝手の良い場所だったのではないかと思います。しかし同時期に風葬墓と保管庫が存在していたとは考えにくい。
そうなるといつの時代にどう使っていたのか?が気になってきました。
まず『内城墓』と呼ばれていることを取り上げると、それは世之主の城が内城に築城されて以降の時代になると思われます。城が出来たから付近の地名が内城と呼ばれるようになったと考えるからです。時代にして1300年代後期以降になるのではないかと思われます。
そしてお墓の場所が内城ではなく伊座敷泊の海岸であったという点は非常に疑問です。
確かに風葬に適した場所ではあるのですが、内城からは4キロほど離れた場所にあります。そんな場所までご遺体を運んでいかなくとも、もう少し近い場所ではダメだったのかと不思議に思うのですが、そこには理由があったようです。
知名町誌によれば、昔は葬儀の盛大さを多くの人に見せるために、または誇るためにわざと遠方に葬る慣例があったというのです。
遠方の墓地まで行列をなしてご遺体を運んでいたのです。その人物が偉大であればあるほど、盛大な行列だったのでしょう。
赤嶺のアーニマガヤの東方に瀬利覚墓
畦布に瀬利覚墓、余多墓、内城墓
内城に竿津墓
永嶺に余多墓、屋者墓
知名村付近に下城のトゥール墓トーシキ
畦布に瀬利覚墓、余多墓、内城墓
内城に竿津墓
永嶺に余多墓、屋者墓
知名村付近に下城のトゥール墓トーシキ
自分たちの住む集落以外の場所にこのようにお墓があったようです。しかし現在の人たちは、自分たちのご先祖のお墓が、遠方にあったことを知る人は殆どいないということです。
そういえば、人が亡くなったあとに風葬した後の最初の7日間は、親子兄弟の肉親が毎日そのご遺体に会いに行くという風習がありましたね。そのような風習は遠く離れたお墓であれば、難しいのではないかと思います。
となれば、この風習は居住集落付近にお墓を持つようになって以降のことだったのかもしれません。
そう考えると、遠く離れた場所にあった内城墓を利用していた時期は、世之主が島を治めた1300年代後半以降の時代からだったのではと考えます。
しかし世之主のお墓は城のすぐ側のウファチジにあったということですから、内城墓の利用はもう少し後の時代からだったのかもしれません。
そして内城墓の使用はいつまで続いていたのか?
これは憶測ですが、1609年の薩摩侵攻後に1690年に島に代官所が設置された頃までは使われていたのではないかと思うのです。この時期辺りから、内城に世之主の墓(ウファ)やチュラドゥールなどのお墓が作られたりして、少しずつ墓地や葬り方が変わっていったのではないかと思うのです。
風葬墓として使われなくなった洞窟は、もしかしたら交易品の倉庫として使われたのかもしれません。そこからが倉庫としての役割の始まりだったのか、もしくは内城墓が始まる前も倉庫だったのかそこは分かりませんが、①倉庫→お墓→倉庫 ②お墓→倉庫のいずれかの順番で使われていたということです。
内城墓は今となってはもうお墓だった形跡が残されていませんし、ご先祖さまからの伝承もありませんので詳しいことは分かりませんが、お墓の歴史の1つとして記録しておきます。