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先祖を探して

Vol.378 お墓の歴史:風葬の中でのお別れの儀式

島で亡くなった人々の風葬をするとき、洞窟を利用しなかった場合はモーヤという小さな藁葺小屋を建てて、そこにお棺を置いて風葬をしていたことは前回書きましたが、亡くなった方とのお別れの儀式が終わり風葬が始まっても、それはまだ死者との完全なお別れではなかったようです。

初七日頃までは毎日墓参りに出かけ、棺の蓋を開け中の屍体をのぞきながら女性達が慟哭する習わしがあったというのです。
その墓参りの状況としては、以下のようであったそうです。

死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気を、あたりに漂わせていた。棺の近くで咳ばらいをして、死者の名前を読んだり話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し大きな臭気は消え失せ、微かな匂いを感じさせるだけになった。棺の前で死者の生存中の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きたままの姿が現れて、話し合いができるし、暫くたつと消えていった。

棺に釘付けをして埋葬することは、この上もない不人情であり、死霊の祟りをうけることになるとか、大切な家族を動物と同様に土の中に埋めることは不びんであるといった思想から、風葬が行われていたようです。そして、死者を見に行くといった行為は、親しい者が亡くなった喪失を徐々に納得していく過程だったとも考えられているようです。
確かに、インドネシアのスラウェシ島に暮らしているトラジャ族の人々は、家族を失った悲しみを、遺体と一緒に暮らすことで和らげるのだそうです。現在は死後すぐにホルマリンで防腐処置をするので遺体は腐敗することなく、いずれはミイラ化するのだそうですが、亡くなって数日は遺体を赤い毛布で覆って顔だけを出してベットに横たわっているのです。そのベットにいる間は、家族がいつもの生活通りに遺体に話しかけたりして生活をしているのだそうです。


風葬であったから、死者を見に行くことが始まったのか?
死者を見に行きたかったから風葬にしていたのか?
どちらが先かは分かりませんが、死者と一緒に暫く普通に暮らすことで悲しみを和らげるといった考え方からすると、死者に会いたかったから風葬という風習が生まれたのではないかと思います。しかし現代の私たちからしたら、かなりハードな死者とのお別れの方法であったようです。
さすがにこの死者とのお別れの儀式を実際に行ったという方はもう存在はしないでしょうが、当家のご先祖さまたちもこのような風習をずっとやってきていたのだと思います。

この方法は明治35年頃までは続いていたようですが、 鹿児島県庁が発した沖永良部島への諭達には以下のように書かれています。
『沖永良部諸改正令達摘要録』
「爾来地葬すべきは当然に候処或る所は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟等此モヤに到、其棺を開き見る数回、終に数日を経屍の腐敗するも臭気も不厭赴に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気を嗅ぐものは甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者いへども、其臭気に触るれば病を伝染し、或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様之弊習は此度相改め云々」

親族が亡くなった後に、喪屋に腐敗の臭気も気にせず棺を数回も見に行くことは、人情の厚きことではあるが、、、といったようなことが書かれています。
しかし薩摩による島への

侵攻があったのは1609年のこと。島に代官所が出来き、鹿児島から赴任した代官が島で生活するようになって約200年ほどはずっと同様のことが行われていたと思うのですが、それはやはり先祖崇拝という風習と深い人情からくるものであるとして、暗黙の了解であったのかもしれません。
この論達により、風葬は次第に無くなっていったようですが、洗骨による改葬はその後も続いていたようです。

次回はそのことについて。


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