お爺さまの記録の中に、世之主のお墓をウファチジからウファに移動した理由として、ウファチジの下に住む住人達からの希望であったと書かれています。
いくら世之主様のお墓とはいえ、丘の上から伝ってくる水を飲料水にするわけだから、不衛生であるのでお墓を移動して欲しいと琉球王に訴えて、沖縄から屈指の石工が派遣されウファを築造したという話です。(詳細はVol.225参照)
住民たちが『不衛生』だと訴えていることが、お墓について詳しく知るポイントのようで何か気になります。
飲料水はウファチジの北側に湧き出ていたヤシ川というところの水だったそうです。
このお墓に安置されていたのが洗骨後の遺骨であったのなら、それは時代的に厨子甕ではなく板厨子といういわゆる木棺に収められていたと思いますが、前回も書きましたが、それを納める場所がウファチジには見当たらないのです。
お爺さまは『埋葬』という言葉を使っています。もしかしたら、風葬ではなく土の中に埋葬をしていたのかもしれません。
遺骨になる前は風葬や埋葬の期間が3~7年あり、どちらかといえばこの期間の方が不衛生であるという感じがします。
そして、その期間に墓の移動希望があったのか?
その丘がお墓だとわかっていながら下の方に住みはじめ、その後に墓を移動希望とはならないでしょうから、下に住んでいたという住人たちはお墓ができる前から住んでいたのではと思われます。
そしてウファチジの丘の上に何十年、何百年も世之主のお墓が存在していて、ある時に下の住民達が移動希望を訴えたのではなく、お墓が出来た早い段階で訴えたのではないかと思うのです。
そうなれば、移動先のウファが作られたのは、お墓の調査によれば1600年代中期以降のようですので、このウファチジに眠っていたとされる世之主は、1416年頃に自害したとされる世之主ではなかったのかもしれません。
お爺さまの記録の中には、ウファを作る候補地は2つあって、1つは現在のチュラドゥールの場所、2つめは学校敷のところ(寺敷と呼ばれる場所)だったと書かれています。築墓には3年かかったとあります。(詳細はVol.225参照)
2つめの候補地が学校敷と呼ばれているあたり、江戸時代の薩摩支配時にこの地には寺子屋があったそうですので、ウファが作られたのはやはりお墓の調査結果のように1600年代中期頃だったのではないでしょうか。
そしてお墓の移動を琉球王に請願するということは、その亡くなった世之主は時の琉球王に関係がある人物だったのではないかと思われます。
上記のことをまとめると、
①お墓から伝わる水を飲料水にしているので不衛生であるから墓を移動して欲しいと琉球王に請願。このことから、世之主は琉球王と関係のある人物で、風葬か埋葬をしていた時期の話ではないのか?
②琉球から屈指の石工が派遣されウファを作ったが、候補地の呼び方から考えると薩摩侵攻後の1600年代中期頃ではないのか。
この2つのことから、浮かび上がる人物がいるのですね。
薩摩侵攻時1609年に島にいたとされる、首里之主であった思鎌戸という人物です。徳之島の東ケ主が急死して、1608年に沖永良部島と徳之島を首里之主として島の統治を兼任した人物です。
この思鎌戸は徳之島の東ケ主の後妻と婚姻し、徳之島には子孫がいらっしゃるということで1612年に亡くなったことが記録されています。沖永良部島にも妻子がいたそうですが、その子孫等ははっきりとは分かっておりません。
徳之島にはこの思鎌戸のお墓は存在していないようです。もともと沖永良部にいた首里之主ですから、沖永良部にお墓があってもおかしくありません。
この思鎌戸は、那覇の国司氏の婿殿の可能性があります。そうだとすれば、当時の国司=国王は尚寧王。その娘の婿ということになりますね。
尚寧王には伝承も含めて実子が数名いたようですが、歴史的には封印されて実子はいないことになっています。
しかし薩摩側の記録に国司の婿殿と書いているところをみれば、娘婿であったのは間違いないでしょう。
この思鎌戸は自害説もありますから、北山王の次男であった1400年頃の世之主の自害説と混同しているのかもしれません。
思鎌戸が1612年に他界し、風葬か埋葬で3~7年間経過後に洗骨による改葬。ウファはその間に3年かけて築墓。時の尚寧王は1620年他界ですので、それまでの間にウファは出来上がっていたと思われます。(別で石工の首はねの話がありますので)
33年忌にお墓を移したなどの話もありますので、遅くとも1600年代中期頃にはお墓も出来上がり、ウファチジから移葬されたのではないかと考えることができるのです。
ウファの方に安置されているのは3代の世之主だという話もありますので、思鎌戸より2代前の世之主たちなのかもしれません。
この2代前の世之主や彼らのお墓については、別で書きたいと思います。
最初にウファチジにお墓があり、後にウファに眠る世之主は思鎌戸であったとする説は、お爺さまの記録や様々な状況から考えた私個人の考察であって、それが真実かどうかは分かりません。
ご先祖さまを探していく中で、いろいろ考えてみることは楽しい時間であって、そうすることで真実の歴史が見えてくるのかもしれません。