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先祖を探して

Vol.206 世之主の長女のお墓

沖永良部島の越山の山頂に「ごうじんどう」と呼ばれるお墓があることを Vol.24で書きました。
和泊町誌のによれば、当家のご先祖様である世之主以前の島の豪族のお墓であるようだと書かれていますが、詳細は不明とのこと。
このお墓について、 「むんがたい」(1990 (平成2)年 和泊町老人クラブ発行)という冊子に、何とこのお墓は世之主の長女の墓であると書かれていました。
これは驚きの内容です。

世之主の姉については以下のことが伝承されています。
父親の世之主(真松千代)が、中山の和睦の船を侵攻と誤認して奥方・長男と一緒に自害した時に、長女と二男が乳母に連れられて徳之島に避難したといいます。
この時、長女5歳、二男3歳。
そして時期はわかりませんが、実は和睦の船であったことが分かり騒動が収まったので、島の役人が二人を迎えにいき、城跡の後方の山に新しく館を構え、そこで過ごしたそうです。城を新しく直したので、そこは直城(なおしぐすく)と呼ばれています。
その後成長した次男は、島役人の大親子となり代々子孫が大親子をしていたそうです。いっぽう長女は、島主の娘で高貴であったため、島には似合いの男子がおらず一生独身で過ごしたということです。

その長女が過ごした場所は、城があった山と直城の間あたりだったようです。
そこはずっと男子禁制だと言われており、もし男子がその屋敷跡に行ったら祟りがあると言われていたそうです。
昭和の初期のころまでずっとそのような伝承が宗家には伝わっていたようです。
そして叔母が昔聞いた話によると、叔母から見て祖母の代(明治生まれ)までは、その屋敷がまだ残っており、宗の本家の嫁が掃除などに行って手入れをしていたそうです。
昭和の初期頃には客土の採取のために直城の山も削られて畑となってしまい、その屋敷も無くなってしまったのだそうです。今では全くその面影もありません。

その長女が眠るのが、「ごうじんどう」と呼ばれているお墓なのだそうです。
このお墓には2つ石積があるようです。1つが長女だとすればもう1つは誰のお墓なのでしょうかね?
弟であった二男のお墓なのでしょうか?

これらは伝承なので、本当のところは発掘調査などしてみないことには分からないと思いますが、新しい情報が舞い込んできたことは嬉しいですね。
地元発行紙は様々な情報を得られる宝本かも。


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