島のご先祖様が眠るお墓は、本土のお墓とは違い琉球式です。1609年に薩摩が島を統治して以降は大和式の文化も入ってきて、1700年代あたりからは大和式の墓石を建立するようになっていきますが、納骨については風葬の文化から別に設けた納骨堂に厨子甕に入れて置いたり、厨子甕にお骨を入れて墓石の後ろに穴を掘って三分の一ほど地面から出して埋めるといった方法でした。
大和式の墓石をもたない場合は古くから利用していたスタイルで、自然に出来た洞窟を利用したり、森の中に珊瑚の石を積み重ね周りを低い石垣で囲ったりした場所に納骨をしていたようです。
この風葬の文化ですが、これがいつの時代から始まったことなのかははっきりとは分からないようですが、その文化に終わりがきたのは明治11年に警察から風葬の禁止令が出された時です。しかし実際には明治34~35年頃までは、まだ風葬が行われていたといいます。
この風葬について、私は以前から少し疑問を持っていました。それは、この風葬というものがどこで行われていたのかということです。
というのも、例えば当家のチュラドゥールというお墓の場合、納骨堂は1つです。沖縄の琉球王家のお墓などは、風葬をするための別室が設けられていたようですが、チュラドゥールにはそんな部屋はありません。チュラドゥールに限らず島に残る琉球式と呼ばれるお墓には納骨堂以外は設けられていないのです。
ではこの納骨堂にそのままご遺体を置いて風葬していたのか?
もちろんそれもお墓ができた当初は可能ではあったと思うのですが、例えばお墓を使う一族の中に同時期に数名の方が亡くなった場合はどうしたのか?
お骨を入れる厨子甕が増えてきて、納骨堂内にスペースが無くなってきったときにはどうしていたのか?
チュラドゥールの側には風葬に使えるような洞窟はありません。地形が変わっているところもあると思いますので、昔には付近にそのような場所があったのかもしれませんが、現在では確認ができません。
そこで風葬の歴史を調べていくと、モーヤという藁ぶきなどで簡易的な小屋のようなものを作り、その中にご遺体を入れた板で作ったお棺に縄をかけて置いていたということが分かりました。
モーヤとは喪屋の漢字が当てはまるようです。
ご遺体を入れるお棺は写真のようなものを使っていたようです。おそらく後の土葬に変わった際も、この棺をそのまま土に埋めていたのでしょう。
酒井正子 [著]『奄美歌掛けのディアローグ : あそび・ウワサ・死』P324より
この風葬スタイルがいつの頃からあったのかは分かりませんが、洞窟を利用した風葬スタイルも同時期に存在していたのだと思います。
当家のご先祖様も風葬が禁止されるまでは、このモーヤを使った風葬を行っていたのかもしれません。
風葬の方法が分かったところで、次回は洗骨までの儀式を紹介します。