前回の記事で沖永良部島に伝わる島唄の中から気になるものを3つピックアップして書きましたが、そのうちの1つについて記事を読まれた方からご連絡をいただき、唄の内容が判明しました。
その唄は以下のもので、前回私なりの解釈をしていました。
稲戸玉城(にゃーとぅたまぐしく)は 村一村(むらちゅむら)とぅ思(み)ば
なまそ俣(また)ひだみ 二村(たむら)なしゅさ
現在の玉城という所は、昔は稲戸(ニャート)と呼ばれていて、薩摩の時代に玉城(読み方はニャートのまま)という漢字に変わったそうですが、この唄では稲戸玉城は1村だと思うが、実は2村なんだといっているのか?
それとも1村だが2村あるほど栄えていているという意味なのでしょうか。
「なまそ俣ひだみ」?どういう意味なんでしょうね。難しすぎます。
この「なまそ俣ひだみ」がポイントでした。なんとなんと「なまそ」とは、あるお宅の屋号だったのです。なます?おみそ?とか、何だか食べ物の名前かな?などと想像してみたりしていたのですが、全く違ったようです。
漢字で書くと「中まそ」。
「中まそ 俣 ひだみ」で、「中まそのお宅の俣(分かれ道)を左にいくと二村目になるよ。」というような意味になるようです。
ちょうど屋号「なまそ」のお宅の前あたりが二股に分かれており、その付近が玉城と稲戸の別々の村堺だったようなのです。
これらの村は1村と思われるが、中まそのお宅付近を別れ道として、左に行くと次の村になるんだよということでしょう。おおよその意味は当たっていましたね。
この玉城も昭和の初期頃と今では地形が少し違うようです。
なまそのお宅の前面付近は、地形的に割れ目のようになって少し谷になっていたようで、その俣になるあたりに屋敷があったようです。この俣の付近にあったなまその屋敷が村堺の目印だったということでしょう。
言葉の理解が難しい島唄ですが、この唄から1つ勉強させてもらいました。