見出し画像

先祖を探して

Vol.304 永良部の島唄に ①中城様

当家のご先祖様調査の中で様々な方から情報を頂いておりますが、沖縄在住の方から島唄についての情報を頂きました。
この方は沖縄で三線のレッスンを受けられており、そのお教室の教本にある島唄に以下2つの歌詞が書かれてあったということです。


「与論(ゆんぬ)百合ぬ浜、いきゃん(いかに)
きゅらさ(清らかさ)あてぃむ(あっても)
永良部長浜ぬ 上(うい)やいかむ(いかない)」


与論島の百合が浜は白砂の美しいビーチです。この浜がどれほど美しくあっても、永良部の長浜(浜の名前)よりは上にはいかない(上位ではない/かなわない)という意味でしょうかね。

「永良部(いらぶ)長浜ぬ、いきゃん(いかに)
きゅらさ(清らかさ)あてぃむ(あっても)
中城(なかぐしく)様が上(うい)や、いかむ(いかない)」

沖永良部の長浜は昔は白砂の美しく長いビーチだったそうです。琉球時代や薩摩時代の主要な港でもあったようです。昭和の時代に港の開発でビーチの一部は失われ、その面影は薄れているようですが、かつては美しいビーチであった。しかしこちらも、いくら美しく清らかであっても、中城様にはかなわないというような意味の歌詞ですね。
中城様とは人物のことで、琉球王もしくはその世子のことではないかと解釈されているようです。
いくら清らかで美しいビーチでも、琉球王(世子)の方が上だということです。


文面通りの解釈であれば、美しいビーチをテーマにして、
百合が浜(与論島)➾長浜(沖永良部島)➾中城(琉球王or世子)と百合が浜から中城までの上下関係が見えますが、これは浜の美しさを当時の港として繁栄していた権力の上下関係を美しい浜に例えて唄ったののかもしれませんね。

この唄は琉唄として那覇世と呼ばれる琉球属国時代から唄われていたとも聞きますが、中城に琉球王が居城していた歴史は無いようで、中城といえば北山王国滅亡に一役かった護佐丸が居城していた場所。第二尚氏の時代には中城御殿(中城城とは別の場所)に世子が住むようになったそうですから、その中城のことなのか?
しかしその中城御殿は尚豊王が在位(1621-1640年)時代に建てられたそうで、その時は与論も永良部も既に薩摩配下の時代です。
よって那覇世ではないので、中城様とはこの時代の人物ではないと思うのです。

そうなれば、やはり中城城のことを指しているのか?
第一尚氏の第6代目国王であった尚泰久王の時代(1454-1460年)に護佐丸は
中城に居城していたといいます。
護佐丸は北山が第一尚氏王統によって滅亡し、北山監守が今帰仁城に置かれる前の7年間程は今帰仁城におり奄美地方を統括していたともいいますから、与論や永良部にも名高き存在であったと思われます。
中城居城の護佐丸を中城様と呼んでいたのであれば、あくまで憶測ですがその時代も護佐丸が与論や永良部の支配を尚泰久王に任されていたのかもしれません。
王や世子のような敬称ではなく様を使っているのと那覇世の唄ということで、中城様とは護佐丸を指しているのかもしれませんね。

研究者による解説や解釈があればと思い探してみましたが、今のところ見つけることができませんでしたので自分なりの解釈です。

情報をくださった方が、中城というのは宗家の記録上の始祖である中城ではないか?と投げかけてくださいましたが、当家の中城は1600年代生まれで残念ながら那覇世の時代の人ではありませんので、唄の中城様ではないようです。
しかし、中城という名称は、中心的だったり頂点の人を指す呼び名だったのかもしれません。

島唄から様々な考察でした。



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「島唄」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事