琉球が3つの国として、北山、中山、南山と呼ばれた時代に、北山王と沖永良部島のノロとの間に生まれたと伝わる真松千代。成人し沖永良部島の島主となり世之主と呼ばれた人物を唄った島唄がありました。
那覇(なふぁ)ぬ世之主(ゆぬぬし)とぅ 情(なさき)仮り枕
沖(うき)ぬる思(うみ)う子(くわ) 思(うみし)かまで
この唄は、真松千代の出生について唄ったものであると伝えられているようです。
那覇の世之主とは、国王のことではないでしょうか。そして、沖ぬるとはノロのことで、そのノロが生んだ子が思かまでということで、真松千代の幼名が「思かまで」であったということになります。
しかしどうも気になることがあります。
真松千代は北山王とノロとの子供です。中山王ではないのです。那覇の世之主=国王であれば、三山時代の中山王、もしくは三山統一後の第一尚氏および第二尚氏の時代の国王ということになります。
その時代の那覇の国王と沖ぬるとの子供が「思かまで」ということであれば、真松千代とは違う人物ということになります。
そして「思かまで」といえば、1609年薩摩侵攻時の頃に沖永良部に首里之主として存在していた「思鎌戸」という人物を思い出します。徳之島の東ケ主が急病で病死したので、思鎌戸は大屋子として徳之島も兼任したのです。
この思鎌戸も一説には沖ぬると琉球王(第二尚氏の王)との子供であるということですので、もしかしたらこの思鎌戸のことを唄ったものなのかもしれません。
生(うま)り下城(しんぐすく) 育(すだ)ち玉城(たまぐすく)
上城(ういぐすく)に上(に)ぶてぃ 世之主(ゆぬぬし)がなし
この唄は、世之主が下城で生まれ、玉城で育ち、上城で統治したということを伝えているようです。真松千代は下城に住んでいた沖ぬると北山王の子供(沖ぬるの姪という説もある)で、玉城で育ち(北山から島に渡海時に玉城に住んだ説もあり)、そして城があったのが上城です。
世之主伝説そのままの内容を唄っていますね。そのまま受け取れば、北山時代の真松千代のことを伝えている唄だと思われます。
2つの唄がいつの時代に唄われていたのか、そこは分かりませんが、世之主と呼ばれた人物が時代を別にして存在していた可能性が見えますね。
また世之主は2代でつきたなどという話もあるようです。
仮にその世之主の1代目が真松千代だっとするならば、2代目は真松千代の二男ということになるでしょう。徳之島に避難して、その後帰島し琉球王の取り立てにより大屋子になったという二男です。
その子孫であると伝わる我が宗家も、この2代以降は1600年代まで先祖が不明であることを考えれば、2代でつきたと言われている由縁なのかもしれません。