第二尚氏三代国王であった尚真王の子供たちが奄美の島々に派遣されたのではないかという話は、ある方からの情報でした。この方も奄美の島々の方で、ご先祖様が琉球と関係する家の方です。代々その家の伝承があられるようですが、当家と同じく不明な点が多く、私よりもずっとずっと以前から様々な調査をされておられます。
その尚真王の子供達で、埋葬地が不明な方々がいらっしゃることは前回書きました。4名のうち四男:尚龍徳 は子孫が分かっておりますので、残りはこの3名です。
- 次男:尚朝栄・大里王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
- 六男:尚享仁・金武王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
- 七男:尚源道・豊見城王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
この3名の方々を調べていくと、以下の情報を得ることができました。
二男:尚朝栄
与論島に渡海して、島主になった「花城真三郎」であるという説です。
与論島に花城という地名は無かったようで、この真三郎が琉球本島で暮らしていたところの地名が花城であったため、そう呼ばれていたのかもしれないといいます。
花城といえば、父親である尚真王の育ての親が「花城親方守知」というようです。もしかしたら、そこからとった花城かもしれませんね。
六男:尚享仁
奄美大島に金武按司を称していた一族がいるようです。尚享仁が金武王子であったので、この享任が奄美大島に渡海したのではないかという説です。
七男:尚源道
豊見城王子となっていますが、詳細は不明な方です。娘が尚真王の長男である浦添王子朝満の息子である朝喬と結婚しています。従弟同士の結婚ですね。
この源道は、生没年は不明となっていますが、生まれ年についてはヒントがありました。
尚真王の時代に、王族の墓である玉陵に碑石が立てられています。それは1501年9月です。この碑石には、玉陵に入ることができる王族の名前が記されているのですが、その碑文の中にこの尚源道の名があります。ということは1501年9月にはもう生まれていたということです。5男である尚清王が1497年生まれですから、7男である源道は1499~1509年の間の生まれということになります。
そうなれば、成人以降に1500年代に奄美の島々に派遣された可能性はありますね。与論と大島が上の兄二人だったとすれば、徳之島か沖永良部だということになります。
尚真王の子供たちの中から、奄美の島々に渡った可能性のある人達を埋葬地不明というキーワードから探してみましたが、現在のところ沖永良部島を統治した可能性がある人を特定すことはできませんでした。
しかし、尚真王には家譜に記載されている子供以外にも伝承があります。
そのことは別記したいと思いますが、このような家譜に記載のない子供たちが奄美の島々に渡った可能性もありますね。
こうして調べていくことで、様々な情報を知ることができ、それがまた次の検証に役立っていくと思います。
琉球史の勉強にもなっておりますので、まだまだ知らないことも多いですから諦めずに調査を進めていきます。
沖永良部島の統治者についての情報は、再度まとめてみたいと思います。