見出し画像

先祖を探して

Vol.216 調査をしたい墓石があるのです

島にある一族のお墓は、大きく2ケ所に分かれているようです。1つは、お爺様の系統になる屋号:上花城系のお墓で、こちらは何度かご紹介しているチュラドゥールと呼ばれる琉球式のお墓です。ここには他にも宗家の墓石がいくつかありますが、詳細は把握できておりません。
もう1つは、昔は宗墓(そうばか)と呼んでいた、本家系統のご先祖様が眠るお墓です。
もともとは、本家もチュラドゥールを一緒に使うようになっていたのだそうですが、訳あってすぐ側に別のお墓を作ったのだそうです。

この宗墓ですが、昭和30年代頃までは昔のままの様子をとどめていたようで、1人1つの墓石が建てられていたようです。この頃までは土葬をして、3年~7年程で土から掘り起こし、お酒などで洗骨してから甕に入れて保管をするという琉球時代からの埋葬方法を行っていたそうです。墓石の後ろに、甕に入れた遺骨を埋めていたといいます。
明治時代になり火葬制度に変わりましたが、島には火葬場が無かったために、昭和のこの時代はまだ古い様式を続けていたのです。
そして火葬場が出来て、埋葬方法が火葬に変わるタイミングで、宗墓も現代式のお墓に変わったそうです。火葬場ができた1974(昭和49)年頃のことです。
墓を改装したもう1つの理由は、代々のご先祖様達のお墓が増えて墓場がいっぱいになり、新しい墓が建てられなくなってきていたこともあったようです。

新しくなった墓は、家ごとに一基の大和式の墓石が前面に建ち並び、本土とは違って後方に納骨堂の建物があります。中央にある大きな墓石は、昔の宗墓の入り口に置いてあったといいます。
これが恐らく、記録上の始祖の中城の孫にあたる三代目の平安統惟次(喜美留与人)が、父母のために建立したという墓石だと思われます。建立時期は1730年頃ではないかと推測されます。

このような経緯のあった宗墓ですが、昭和40年代頃に改装する前の古い墓石が、お墓の片隅に積み上げて残されています。


私はこの墓石に、何かご先祖様を探すヒントが隠されているのではないか?と考えています。
もしかしたらもう劣化して文字なども読み取れないかもしれませんが、記録上の始祖の中城の両親の墓石はないのか?家紋がついていないのか?など、気になることが満載です。
早く島に行って調査をしたいと願う日々です。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「お墓」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事