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先祖を探して

Vol.69 幻の「禅王寺」


沖永良部島の寺情報は島の住民の方々にはあまり知られていないようですが、「禅王寺」という寺が以前に古城地跡の近くにあったことを、ご先祖探しの活動の中で知りました。
地図の中にある「寺屋敷」と書かれている場所です。
この近所にお住いの当家の親戚筋の方の屋号は「テラシキ」と言うそうで、禅王寺もしくはこの土地と何か関わりがあったのかもしれません。



*残念なことに現在は畑で、全く寺跡とは分かりません


資料による情報

この禅王寺ですが、沖永良部島郷土史資料に記載があり、その後に発行されている和泊町誌:民族編にも以下のような記載があります。

********************************
「世之主時代(580年前)に始めて仏教輸入せらる。平安統氏の記録によれば、首里天王寺より観音一体僧一人を招致して内城に寺舎を建つとあり禅王寺是なり」とある。



琉球の天王寺は琉球第二尚氏王統の始祖尚円王(1470年即位-1476年卒)によって建立されていますので、実際に内城に寺が建てられたのは、仏教が全盛期だった尚円王の時代だと思われますが、確かな証拠はありません。

世之主時代(580年前)にと書いてあるのは、琉球最古の仏教伝来の記録としては、13世紀の中頃、英祖王(1260年即位)の時代に禅鑑と称する僧が、那覇に漂着し浦添城の西に極楽寺を建立したことであるそうなので、580年+1260=1840年ということで、ここでいう仏教輸入とは琉球に仏教が入った時期が1840年から見て580年前である1260年頃で、かつ、この件を書いた平安統とは1840年という年代から見て「世之主由緒」を書いた平安統惟雄だと思われます。

しかし、この記録がどこにあるかが不明なのです。
世之主神社にあるのか?
本家にあるけど分からないのか?
少なくとも沖永良部島郷土史資料が書かれた昭和31年頃にはあったはずですので、現在どこにあるのか謎です。


僧侶について

和泊町史によれば、仏寺が建立されたのは記録の上ではここだけのようです。僧侶に関しても、その後に薩摩の谷山郷から禅僧が渡来し仏教を布教し、内城の東城家の祖になったそうです。
その後内城の宮松氏という方が代わって僧になったようですので、当家は仏教の僧侶ではなかったと思われます。神仏共存の文化だったようなので、当家のご先祖様が神主&僧侶のダブルワークだったのかもと一瞬思いましたが、さすがにそれは違ったようですね。

頭部のない仏像

世之主神社には頭部の無い仏像が安置されています。神社が2018年の改築前は、神社左手の角に小さな祠があって、確かにそこにありました。これは禅王寺にあったものだと言われているそうです。
明治期の廃仏毀釈で頭部を失った仏像を救ってあげたのかもしれませんね。 

世之主神社は高台にあったため、明治4年頃に風災に堪えかねて禅王寺跡へ一時移っていた時期があったそうです。その後、明治35年に内城の住民の希望により寄付金によって古城地跡にまた社殿を建築したそうです。
そんな経緯もあって、禅王寺の仏像を一緒に安置しているのでしょうね。


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