以下の沖永良部島に関係のあった人物たちについては、琉球の系図座に家譜が存在していたかどうかの確認ができなかったもの、またそもそも系図座には家譜はなかったものについて、別の資料から確認してみました。
④1607年 与那覇系譜伝
是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ
南島風土記 : 沖縄・奄美大島地名辞典(1964年 東恩納寛惇 著)の中に、与那覇系譜伝「康村、嘉靖三十五年生、萬暦三十五年丁未伊良部文子、室大島按女思玉」とあります。
この内容から、康村は1556年生まれで1607年に51歳で沖永良部島の文子になっています。
妻は奄美大島の按司の娘だったということ。記録が無いので分かりませんが、与那覇系譜伝とのことですので沖永良部の人ではない可能性が高いですが、奄美大島の按司の娘と結婚しているところを見れば、今でいう奄美地方の転勤族。「任ズ」ですから、もしかしたら記録が無いだけで、沖永良部島にいたのかもしれません。
1609年には島津による統治が始まりますので、この人物が琉球に戻ったのか、そのまま島で暮らしたのかは分かりません。池康村と関係があるかは不明ですが島には池姓の一族がおられます。
⑤1608年 寶満家系図
二月ヨリ後、琉球国中山王尚寧、沖永良部島ノ大屋子思鎌戸ニ徳之島ヲ差引セシム
寶満家というのは、徳之島の家系です。思鎌戸については、これまでも何度か書いてきましたが、思鎌戸の子孫である寶満家によると1600年頃に沖永良部島の首里ノ大屋子であった人物です。
1608年に徳之島の東ケ主が病死したため、沖永良部島在住だった思鎌戸が両島を兼任したそうです。
1609年に薩摩が侵攻してきた当日は沖永良部島にいたようで、薩摩の軍勢に対応した人物だともいわれています。
薩摩侵攻時のことを歌った島唄には「ひゃんとうしゅ(平安統主 当家のご先祖さま)が島を救ってくれた」というような歌詞があり、この思鎌戸が平安統だったのか?
そこは未だに不明です。
また一説には、薩摩との対応後に自害した(時期は不明)という話もありますが、思鎌戸は1612年に他界しているようで、自害したとは伝わっていないようです。
当家の平安統についても自害説は無く、平安統という名のご先祖さまとは年代が合わずで、関係が全く不明な人物です。
⑥1609年 姚姓又吉氏系譜
二月ヨリ先、琉球国中山王、姚某〇名不詳ヲ沖永良部島地頭職ニ任ズト傅フ
この人物についても詳しいことは分かりませんでした。ちょうど薩摩侵攻時頃に沖永良部の地頭職に任命され、その後1614年にはお隣の与論島の地頭職となっています。薩摩侵攻後ですが、1614年にはまだ琉球の辞令が生きていたということですね。
⑦1609年 要家文書
琉球国中山王、次郎かねヲ、沖永良部島ノ大屋子二任ズ
沖永良部島の北山王の次男であった世之主の母方の家と伝わる要家の文書です。世之主の子孫の家系であれば代々島で生活してきたと思われますので、「任ズ」というのはその地にいて任命されたという意味にとれますね。
1609年という年代から見れば、島では最後の琉球時代の大親子だったといわれています。
こうして見てくると、「遷任セシム」と「任ズ」の違いは予想していたように琉球から派遣されたのと、島在住者であったのとの違いに大筋分かれると思います。
そして、家譜や記録に明確にその違いが書かれていたわけではなく、奄美諸島編年史料を編纂されたときに、そのベースになる家譜や記録の内容から判断され本に記述されたのだろうと推測します。最後にもう一度まとめてみます。
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①1558年 容家家譜
是歳ノ頃、琉球国中山王尚元、沖永良部島首里大屋子〇姓名不詳を任ズ
容義貫の妻が沖永良部首里大屋子の娘であったので、その父親は島にいた人物であったのだろうという判断だろう。
②1568年 榮姓世系図
是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル
家譜に沖永良部島に渡ると記述があるので、それで判断。
③1575年 容姓家譜
是歳、琉球国中山王尚永、容義貫ヲ沖永良部島ノ役人ニ任ズ
沖永良部の首里大屋子の娘と結婚しているので、島にいた人物という判断でだろう。
④1607年 与那覇系譜伝
是歳、琉球国中山王尚寧、池康村ヲ沖永良部島伊良部文子ニ任ズ
詳細は不明ですが、妻が奄美大島の按司の娘ということで、文子に任命されたときには沖永良部島にいたという判断だろう。
⑤1608年 寶満家系図
二月ヨリ後、琉球国中山王尚寧、沖永良部島ノ大屋子思鎌戸ニ徳之島ヲ差引セシム
寶満家系図の系図では、沖永良部にいた人です。
⑥1609年 姚姓又吉氏系譜
二月ヨリ先、琉球国中山王、姚某〇名不詳ヲ沖永良部島地頭職ニ任ズト傅フ
詳細が分かりませんが、島にいた人物であったとの判断だろうか。
⑦1609年 要家文書
琉球国中山王、次郎かねヲ、沖永良部島ノ大屋子二任ズ
伝承などから島にいた人物であったとの判断ですね。
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この編年史料は上下巻あって、かなり膨大な記録が掲載されています。
編纂するのは相当大変な作業だったのではないでしょうか。大変に有難い資料です。