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先祖を探して

Vol.303 玉帳陰符経(4) 行人方の追放があったが、、、

玉帳陰符経から紀州の根来寺、そして根来寺の別院であった薩摩の一乗院と繋がりを見てきましたが、根来寺の行人方について玉帳陰符経をお持ちの大木村の方から情報を頂きました。

大木村から根来寺に行人方として派遣されていたわけですが、1751年に六代藩主徳川宗直が行人方を追放し、根来寺の経済を支えてきた行人方を一斉解雇したというのです。これは根来寺の資料館の展示物に書かれているそうです。
その解雇された人々は故郷に帰ったり、故郷が無い人たちが全国に散っていったのではないかということで、実際に大木村の方では、故郷に戻った人が院内にあった書類を村に持ち帰っているのだそうです。

その全国に散った先に、沖永良部島に向かった人はいなかったのか?ということですが、そこはさすがに分かりません。
島に向かった人が院内から持ち出した玉帳陰符経を、、、なんてことも想像できますが、あくまで想像の世界での話。
そんな遠い南の島になんて、、、と思ってしまいますが、しかし島には海を南下してやってきたという平家や源為朝伝説などもあるのです。
そんなことを考えれば、紀州の根来寺から島にやってきた人がいたかもしれないなんていう想像は膨らみます。

行人方の追放があったのが1751年。
偶然にも当家の玉帳陰符経を入手したであろう4代目平安統惟貞が生きた時代とマッチングします。

想像の世界ですが、もし島に解雇された行人方の人がやってきて、平安統惟貞に陰符経を渡していたのであれば、それはそれで面白い展開です。

これは想像が想像を膨らませたお話でした。




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コメント一覧

yononushi
@cozycycle1717 さん
いつもご訪問ありがとうございます。
はい、私自身も紀州と南島の繋がりがないのか?大変興味がありますが、これ以上の繋がりは今のところ分かりません。

島の先祖は、薩摩時代には島役人が7代続いており、琉球時代にも役人であったようです。始祖は北山王の二男という伝承です。古文書や陶磁器類など古い時代の物が残されていますが、いまひとつ正確な歴史が分からず調査をしている次第です。
cozycycle1717
お早う御座います♪

南方の島と根来寺の繋がりが興味深いです♪

しかし、良く調べましたね~
(^^)v
こうしたモノがあるという事は、
余程の有力者のお家だったのですね〜
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