玉帳陰符経から紀州の根来寺、そして根来寺の別院であった薩摩の一乗院と繋がりを見てきましたが、根来寺の行人方について玉帳陰符経をお持ちの大木村の方から情報を頂きました。
大木村から根来寺に行人方として派遣されていたわけですが、1751年に六代藩主徳川宗直が行人方を追放し、根来寺の経済を支えてきた行人方を一斉解雇したというのです。これは根来寺の資料館の展示物に書かれているそうです。
その解雇された人々は故郷に帰ったり、故郷が無い人たちが全国に散っていったのではないかということで、実際に大木村の方では、故郷に戻った人が院内にあった書類を村に持ち帰っているのだそうです。
その全国に散った先に、沖永良部島に向かった人はいなかったのか?ということですが、そこはさすがに分かりません。
島に向かった人が院内から持ち出した玉帳陰符経を、、、なんてことも想像できますが、あくまで想像の世界での話。
そんな遠い南の島になんて、、、と思ってしまいますが、しかし島には海を南下してやってきたという平家や源為朝伝説などもあるのです。
そんなことを考えれば、紀州の根来寺から島にやってきた人がいたかもしれないなんていう想像は膨らみます。
行人方の追放があったのが1751年。
偶然にも当家の玉帳陰符経を入手したであろう4代目平安統惟貞が生きた時代とマッチングします。
想像の世界ですが、もし島に解雇された行人方の人がやってきて、平安統惟貞に陰符経を渡していたのであれば、それはそれで面白い展開です。
これは想像が想像を膨らませたお話でした。