世之主神社に向かう道は、その昔は山を切り開いた人が1人ほどしか通れないような切通の道が1本しかなかったという話も聞きますが、和泊町誌によればこのように書いてあります。
和泊町誌歴史編
参道は表門前に幾つかの峰が続いており、そこを切り開き人が一人通れるぐらいの狭い道で、道の両側は丈余の壁で昼でも暗く、しかも迷路のように幾筋かあって、神社に至るには容易ではなかった。牛に稲などの荷物を積んでここを通るときには入口の方で声を掛け合い一方を待たせてから通ったものだと古老が語ってくれた。この切通の頂点には島つつじが群生しており、花の頃の景観は素晴らしいものがあった。
まず「参道は表門前」という表現があることから、やはり表門であった参道階段の入口には門があったのでしょう。それがVol.248などで書いた木でできた鳥居だったと思われます。
そしてその門に至るまでの道が複数迷路のように幾筋かあり、神社に至るには容易ではなかったとあります。確かに現在の地図を見ても、細い道があちこちから数本神社に向かっているのが分かりますので、昔は今よりもっと木々で覆われた谷間の道だったでしょうから、神社に行きつくのが難しかったのかもしれません。
「道は丈余の壁で昼でも暗く」とは、実際に壁が作られていたわけではなく、背の高い木々が両サイドにあって壁のようになっていたり、谷間の道で両サイドが崖だったりで、まるでそこに高い壁があるようだったという意味なのだと思われます。丈余って言葉、初めて聞きましたが3メートルほどの高さを表す表現のようです。
先日85歳の叔母に神社までの昔のルートを聞いてみましたが、昭和の初期の叔母の記憶では、寺敷の前の道路から左に入り込み(Vol.243で書いた古道です)、人が1人通れる程の道を登っていくルートと、世之主の墓から畑を横切って神社に向かうルートがあったことを覚えているそうです。しかし叔母がいつもいうのが、景観がすっかり変わってしまって面影がなく分からない。。。昔のイメージが頭に焼き付いている叔母としては、とても寂しそうです。
神社付近の手付かずの場所の発掘調査、そして歴史ある旧道などは保存と復活を希望したいですね。世之主の父上の城であった琉球の今帰仁城付近にある古の登城路ハンタ道のように整備され人がちゃんと通れるようになれば、島の人も使えますし、そうなれば観光地の1つにもなりそうですね。