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先祖を探して

Vol.208 北山滅亡後の沖永良部島の統治は?(2)

第二尚氏3代尚真王の時代に、奄美の島々へ一族の者を派遣した説。その人たちは誰であったのか?
尚真王の子供たちを見てみると、少し意外なことが見えます。
以下はWikipediaからの情報です。

  • 長男:尚維衡・浦添王子朝満(童名・思徳金、号・月浦。1494年(弘治7年) - 1540年(嘉靖19年)11月11日。 小禄御殿一世、母は妃)
  • 次男:尚朝栄・大里王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
  • 三男:尚韶威・今帰仁王子朝典(童名・真武體金、号・宗仁。生日不伝 - 嘉靖年間卒。具志川御殿一世)
  • 四男:尚龍徳・越来王子朝福(童名・真三良金、号・雲体。生没年、葬地不詳。向氏嘉味田殿内一世)
  • 五男:尚清・中城王子(のち即位。母は華后)
  • 六男:尚享仁・金武王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
  • 七男:尚源道・豊見城王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
  • 長女:佐司笠按司加那志(童名・真鍋樽、号・慈山。生没年不詳。母は銘苅子の娘、向氏湧川殿内二世・見里王子朝易に嫁ぐ)

尚真王には7人の男子がいますが、そのうち4名は埋葬地不詳です。
長男は廃嫡で隠居した浦添の小禄御殿の始祖となり、三男は今帰仁監守です。五男は4代目の国王です。四男の尚龍徳については埋葬地は不明ですが、向氏嘉味田殿内一世となっておりますので、この方の子孫は分かっております。
残りの3名についての子孫情報がなく、埋葬地も不明。

この埋葬地不明となっている子供達がそうではないか?という話があるそうです。
尚真王は50年も在位し、その間に中央集権体制を確立させています。琉球の各地に領地を持ち力を持っていた按司を首都・首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させた。首里に住む按司には領地に応じた収入を保証し、按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められました。 
この役人の地方派遣制度によって、奄美の島々に子供たちが派遣されたのではないかということです。
遠く離れた奄美の島々には王府の管理の目が行き届きにくいので、自分の子供を直接配属した方が安心であったのかもしれません。

実際に派遣されていたのは誰であるかの可能性については、次回に書きます。

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