当家の記録上の始祖である「中城」の名前の由来を探しているのですが、琉球の中城に由来しているのではないか?とも考察してきたわけですが、この琉球の中城について調べてみました。
中城グスクは世界遺産にもなっている護佐丸が居城していた城です。
14世紀頃に先中城按司によって築城されたといわれています。初代の先中城按司は、もともと台(デー)グスクに住んでいたと言われ、2代目の人がこの中城を築城したということです。その後、長い年月をかけて、一の郭、二の郭、南の郭、西の郭と築いていったようで、4代目の先中城按司の頃に護佐丸がこの中城グスクに移ることになったので、4代目は現在の糸満市前里に先中城(前栄里城)を築いたそうです。
1458年に護佐丸が阿麻和利に滅ぼされ自害したときに、赤ん坊だった息子の盛親と乳母が国吉ヌ比屋に守られて、先の中城の城主であった前栄城に匿われたとか。そしてここで武術を教わりながら成長したという伝承もあるそうです。
中城グスクの名称は、1471年に朝鮮王の命によって琉球を訪れた「甲叔舟:しんしょくしゅう」が書いた「海東諸国紀」の中にある「琉球国の図」の中に、「中具足城」と記されています。なかなか面白い当て字ですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/bf/dce96945e90b7c27fc59de4bd6cd4f1a.jpg)
この中城グスクですが、護佐丸が自害した後はしばらく城主がいない時期があったようですが、第二尚氏3代目の尚真王(在位1477-1527年)の時代に、世子の尚清に中城を与えたのが始まりで、以降は世子(次期国王)の領地となり、同時に中城グスクも世子の城となったのだそうです。そして、中城を与えられた世子を中城王子と呼ぶようになりました。
その後、尚質王(在位1648-1688年)の時に世子を正式に中城王子と呼ぶように定められます。
1668年には、王族以外に「中城」という文字の使用や「なかぐすく」という呼び方を禁止したのです。そこで、各地で中城と称していた集落や間切りは次々と名前を改めたのだそうです。
ただし、尚清王以降、尚質王までは世子が必ず中城王子を称したわけではなかったようです。
この中城禁止令と当家の関わりを見てみましょう。
当家の記録上の始祖のご先祖さまから3代の名前はこのようになっています。
①中城(1619-1688年)
②池久保(-1695年)父親18歳の時の子として1637年頃の生まれ
③平安統(1692-1744年)
2代目が成人の頃に禁止令が出たせいか、この人は池久保という呼び名です。
この時期は島は既に薩摩の支配下にありましたので、この琉球での禁止令が果たして沖永良部島まで影響していたのかは不明です。たまたま時期が一致なのか、禁止令が影響していたのか? それとも偶然か?
他の奄美群島の状況なども確認してみたら分かるかもしれません。
次回はその世子であった中城王子たちについて書きます。