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先祖を探して

Vol.201 中城について

当家の記録上の始祖になる「中城」。薩摩が侵攻してきた後の1619年生まれ。成人になって大城与人だったようで、1688年に他界しています。
この中城の孫にあたる清嶺という人物が、中城に養子にいったということをVol.102で書きました。
この件いついて分かったことがありましたので、書いてみたいと思います。

まず、当家のお爺様の記録には、中城に養子に行ったこと、泊の町田家と書かれていたことを挙げました。そしてその中城とは琉球の中城ではないかと、私は考察しました。その背景には、お爺様が当家の先祖は中城御殿だと書いていたからです。
琉球の中城には町田一族がいたようなので、そこが当時の考察のポイントでした。

あれから私は、そもそも当家の記録上の始祖の名前が「中城」となっていることが、どうも気になって仕方なかったのです。「中城」なんて、人につける名前ではないでしょう。どう考えても地名です。当時の琉球の人々は、領地を呼び名にしていたので、領地が変われば呼び名も変わる。この「中城」も、明らかに領地の呼び名なのではないかと。
言い伝えによれば、当家は世之主の城跡のすぐ後方に代々住んでいたということですが、そのあたりには中城と呼ばれる土地名はありません。
ではいったいどこ何だろう?
沖永良部島の中城を探し回りました。

聞いたことがない地名なので、小字の名称ではないのか?
地区は先祖が住んでいた内城から和泊の港に向かってのあたりではないだろうか?

そうすると、手々知名に中城と呼ばれる地区があったのです。
しかも、お爺様が書いていたM家もそこにありました。
さらには、聞くところによると、遠い昔にそのM家に当家から養子に行った人がいるという話があるそうです。(もう300年以上も前のことですが)
これはもう間違いないですね。
当家の清嶺の養子先がこれで判明しました。

しかし、まだ問題は残っております。
まずこの地名ですよね。城と名がつく場所は、規模は別としても城そのものがあった場所、もしくはその近辺。
また琉球の方では、人の住む城ではなくてもXX城と読んだりします。交易の品を保管した御物城もそうですよね。
もしかしたら、中城の地には何か倉庫のような建物があった可能性もあります。しかし、今のところはそのような遺跡などは発見されていないようです。

島には世之主城があった場所は内城。その他にも、大城、中城、下城、上城とあります。
位置関係から何か見えないかと地図にざっくり当てはめてみました。



どうでしょうか。島の中央の内城に世之主城があったわけですが、どうにも土地名に関係するようなものが見えてこない気がします。
私が細かい歴史などにまだ詳しくないので見えていないだけかもしれませんが、、、
重要なのは内城と中城の関係ですが、もしかしたらあまり位置関係については意味がないのかもしれませんね。
位置というよりは、その地名がついた由来が別にあるのかもしれません。
琉球の中城にはM家一族がいて、永良部の中城にも同じ苗字のM家が昔から住んでいる。そう考えると、このM家一族が琉球の中城からやってきてこの地に住み着いたので、琉球の時の地名をとって中城とそのまま呼んだのかもしれません。

何も情報が無いので、あくまでも私の仮説ですが、当家の中城はもともとはここの地に住んでいた可能性だってありますね。内城の山奥よりも、港が近い中城の方が、何かと便利は良かったはずです。そう考えると、別宅が中城にあったのかもしれませんね。

いづれにしても、この地名の中城はやはり琉球の地名からとったのだと思われます。
想像が色々と広がってしまいますが、当家の中城の名前の由来についてはまだ明確な答えは出ませんでしたので、引き続き調査をしていきます。




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