北山は丘春(千代松)の王統から怕尼芝の時代に移りますが、この怕尼芝がいつ今帰仁の王の座についたのかははっきり分かっていないようですが、かなり長期にわたって今帰仁を支配したようです。もしかしたら、怕尼芝➾怕尼芝と親子2代に渡った期間だったのかもともいわれています。「国頭郡志」によれば、亡くなったのは1392年で、明国に初めて進貢して9年目になります。1395年には北山の珉王の名で進具が行われているので、この時にはもう怕尼芝は亡くなっています。
しかしこの珉は、1回進貢しただけで亡くなったようで、中山世譜は在位を5年としています。その後すぐに息子の樊安知が北山最後の王として即位します。
即位してすぐに明国に馬や硫黄を朝貢しています。
その後も在位中に14回も進貢し、明国との関係を強め進貢貿易の利益を上げて北山を豊かにしていったようです。
この進貢品の主となった馬や硫黄が、沖永良部島とも深く関わっていたということですね。
北山の討伐へ
樊安知は武勇の人ではあったが、その臣の本部平原もまた武勇に優れ、その他の軍士も皆勇猛であったそうです。
城も難攻不落の構えであったことから、樊安知は驕り高ぶり中山を攻めることを平原と策を練っていたといいます。そこで、北山の按司で樊安知の暴君ぶりを快く思っていなかった羽地按司が、中山に降り樊安知の中山攻めの計画を中山王の思紹に告げたのです。続いて、国頭按司、名護按司も駆けつけて中山に投降し、羽地按司と同じ進言をしたそうです。
そこで思紹王は尚巴志に命じて軍馬を整え、この羽地・国頭・名護按司に加え、中山の浦添・越来・読谷山按司の6軍で討伐軍を編成して、軍を分けて今帰仁城を攻めたそうです。
この討伐年については2つの説があり、中山世譜と球陽では1416年、中山世間では1422年としていますが、現在は1416年説が有力です。
樊安知の最期
越来・読谷按司を裏門(志慶真側)の大将、名護按司を案内役として山道を経て今帰仁に向かったようです。浦添・国頭・羽地按司は、表門の大将として羽地の寒汀那から大船で向かったようです。3月13日に合図を持って3000余騎でグスクに押し寄せ攻めかかったそう。しかしさすが難攻不落な構えでなかなか落ちない。突撃を重ねても時間の経過と戦死者を出すだけで、かなか城内に突破できない。そこで、グスクの西方が険しい地形で守りも薄いと予想し、そこから忍び込む案を出した羽地按司の指示に従って城内に攻め込み、樊安知はもうこれまでだと降参し、宝剣千代金丸で腹を掻き切り自害したとされています。この千代金丸は志慶真川に投げ捨てたということです。
中山世鑑にはこのような戦いの様子と樊安知の最期が書かれていますが、中山世譜と球陽は戦いと今帰仁の陥落については全く別の物語となっています。
中山世譜と球陽では、樊安知は本部平原の裏切りによって城中に攻め入り陥落したことになっています。
どちらが正しいのかは分かりませんし、どとらもかなり色付けされた創作になってしまってはいると思います。しかし、中山の尚巴志が北山を攻めた理由としては、北山按司の密告があったかどうかは分かりませんが、樊安知の代になって明国との進貢貿易で豊かになり勢いをつけてきたこの北山を、警戒していたことは事実でしょうね。実際にこの今帰仁城跡からは、実におびただしい海外貿易の遺片が発掘されているようです。13世紀~15世紀にかけての中国製の青磁・白磁・陶器の破片や貨幣、タイへベトナム、日本製の陶器のかけらなどもあるそうです。それは、北山王が幅広く海外貿易を行っていた証であるし、北山に勢力があったことが伺えますね。
千代金丸について
樊安知が持っていたとされる千代金丸は、琉球尚家の秘宝として伝えられ、現存しております。室町時代初期の宝刀拵えのりっぱな物だといいます。
樊安知が自害して志慶真川に投げ捨てたものを、夜な夜な光を発しているのを遠く伊平屋島の人が見て、訪ねてきて志慶真川から拾い上げ中山王に献上したと言う伝説がありますが、この話はものすごくこじつけっぽいですね。
夜な夜な光る宝剣、、、どこかで聞いたような、、、沖永良部島の世之主の宝剣も海で夜な夜な光っているのを、、、といった話がありますので、創作の1つでしょう。
千代金丸については、中山王の手に渡ったとすれば、それは戦時の戦利品でしょう。自害した時に川に投げ捨てる力があったとも思えませんのでね。戦利品は略奪品でもありますから、それをカモフラージュして怪しげな伝説としたのかもしれません。
そうなると、世之主の宝剣もそうなのかもしれませんね。そのあたりは別で考察したいと思います。
北山監守
北山が落城したあとは、中山から地理的に遠いこともあって監視が行き届かないこともあり、今帰仁城に北山の監視と運営のために北山監守というものが置かれました。
正史では初代の北山監守が置かれたのは1422年で、尚巴志の次男であった今帰仁王子(後に第三国王となる尚忠)を派遣しています。しかし北山討伐が1416年ですから、その間の6年程は不在だったということになります。この時期に統治者がいないとは考えにくく、北山各地の伝承から、討伐に参加した読谷按司が初めは監守となったといわれています。(当時から北山監守と呼ばれていたかは不明)
この読谷按司、実はあの有名な護佐丸です。護佐丸は山田按司でしたが、当時は山田グスクは読谷グスクと呼ばれていたのだそうです。
実はこの護佐丸は、中北山の時代に怕尼芝に滅ぼされた「今帰仁世之主」の系統で、あの丘春の子孫だといわれています。
その護佐丸が、中山王と協力して先祖の仇をうったということなのです。
この護佐丸については別記したいと思いますが、彼は今帰仁城で北山全域を支配し、さらには与論島や沖永良部島もその支配下に置いたといいます。
この2島の支配については、前王統の時代からの続きで支配下に置いたのか?新たに何か強制的なことがあったのか?そのあたりの詳しい事情は分かっていません。
この護佐丸は後に読谷の義喜美に新しく城を建設していますが、その築城にはかつていた山田城の城壁を壊して、切り石を手渡しで運ばせたといいます。
石を手渡しで運ばせるというシチュエーション、どこかで聞いたことがありますね。そうだ、世之主城を後蘭孫八が築いた時に、島民に石を手渡しで、、、という話です。
この時代にトラックなどありませんから、必然的に本当にそのようにして運んでいたのかもしれませんが、似たような話だと思ってしまいました。
実はこの義美座城の築城ために、与論や沖永良部からも農民が多く徴用されたということなのです。それが強制的な徴用で島々に恐れられていて、与論島では子供が泣くと「護佐丸が来るぞ」脅して泣き止ませたという話もあるそうです。
こうしてみると、当家のご先祖様であった北山王の次男であった真松千代ですが、丘春(松千代)との関係は? 果たして伝承の時代に生きた人だったのか? 真松千代が持っていたとされる宝剣と千代金丸の関わりはないのか? 護佐丸が沖永良部に関係していたけど、当家のご先祖様との関わりはなかったのか? などなど、まだまだ紐解いていくことがありそうです。
樊安知の子孫についての話もありますので、それは次回に書きたいと思います。