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先祖を探して

Vol.203 琉球の中城について(2)

尚真王の世子であった初代中城王子の尚清から、当家の中城がいた年代頃までの中城王子を名乗った人物達を調べてみました。

中城を領地にしていた王子
①尚清
第二尚氏3代目の国王であった尚真王の5男。4代目(在位1527-1555年)の王となる。

②尚禎
第二尚氏4代目尚清王の長男。若くして亡くなったため、王位にはついていない。

③尚熙:島添大里王子朝長
任期は1590年代と推測され、20数年間中城王子として在任していたと考えられている。
尚真王の長男で廃嫡にあった浦添王子朝満:尚維衡の曾孫にあたり、7代尚寧王とは従妹になる浦添家の人です。
また第6代目尚永王の次女の夫でもあります。娘婿のため王位にはついていません。
一説には、6代尚寧王が自分の跡継ぎに考えていたと言われています。
※色々あって王位にはついていませんが、そのことは別記したいと思います。

④尚豊
第二尚氏8代目の国王(在位1621-1640年)。長い間佐敷王子であったが、王位継承が決まってからは中城を領した。

年代的に見ると、③尚熙島添大里王子朝長と④尚豊あたりが関係してくるのではと思われます。
しかし④については、当家の中城と同じ年代頃に生まれ、王となっていますので除外かなと思われます。

では③についてはといいますと、少し驚きの人物でした。
実は私が「Vol.106 那覇の国王の婿とは(1)」の記事で、1609年に薩摩が島に侵攻してきた際に、薩摩軍と対応したのが那覇の国王の婿であったという薩摩側の記録をもとに、その人物を考察したときに見つけた人なのです。まさかあの時点では、この人物が中城領を有していたところまでは気が付いていなかったので、あくまで国王の婿殿ということでの考察でした。

では、もしこの尚熙:島添大里王子朝長が当家の中城と関係があったとしたら、どのようなことになるのかを考察してみました。
尚熙は浦添家の家譜には童名眞三郎金唐名尚煕行一號瑞公(生卒不傅葬于平良墓) となっており、生まれた年はわかりません。
しかし妻(6代尚永王の娘)は1584年生まれで長女が妻16歳の時であった1600年に生まれています。
この妻と同じ年ぐらいであったとすれば、年代的に見てこの人は当家の中城の父親の世代になりますね。
子供については娘が一人いたようで、勢能君按司加那志 童名:真蜷甲金 1600年生まれです。婿をもらっていたようですが、離別しています。
ということで、残念ながらこの尚熙:島添大里王子朝長は当家の中城とは関係が無さそうです。
中城王子を名乗った人物からは当家のご先祖様は見つけることが出来ませんでした。
しかし、〇〇中城とつく領地がまだ他にもあることを発見しました。
こちらの調査もしてみようと思います。


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