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先祖を探して

Vol.233 山奥に追いやられた琉球王家の末流

琉球が三山に分かれていた時代の1300年代の終わり頃、和泊町内城上城の地に島主であった世之主の城があり、世之主の子孫は代々その裏側の直城の地に居住していたと伝わります。
実際に、明治期の土地台帳などを見ても、確かにその直城の地に当家一族が居住していたことが分かります。
しかし、私は少しだけ疑問に思うことがありました。
世之主が島主として君臨していた時代なら山深い場所にあった城での生活も問題は無かったでしょう。逆に攻め入られることを考えれば、山上の城の方が防衛的にも適していたと思います。見晴らしも良く、敵が海からやってきても見渡せるような景観ですから、島主として城に居住という考えかたであれば素晴らしく立地条件の良い場所だったかもしれません。
しかし、時代が過ぎて琉球国(中山)の領土となり、中山王の家臣であった役職としての大屋子(大親子)として島に居住していた時代に、果たして本当に城跡付近に居住し続けていたのか?

大屋子時代でも部下や使用人がいたとは思いますが、北山王家の二男として島を納めていた時代とは事情や生活スタイルも違ってきていたのではないのかな?と思うことがありました。
もっと平地の港や海に近い土地に住んだ方が便利が良いに決まってる。大屋子として琉球に渡海することもあったでしょうから、尚更に港に近い方が良いでしょうしね。
お爺様が島で暮らしていた昭和の初期頃でさえ、城跡付近は人が一人やっと通れるほどのうす暗い険しい道しかなかったといいますから、そんな場所に世之主自害後から何百年も子孫が住んでいたのか?
私なりに色々と疑問が沸いていました。

そんな中、少し前に「女神(シャーマン)誕生:松堂クニ」という本を読む機会がありました。
松堂さんは徳之島の出身の方で、ご先祖様は首里之主だといいます。記録に残る1500年代に琉球からやってきた島主です。そして松堂さんは「ノロ」の家系の方で、ご自分も「ノロ」をされていたそうです。
この本には徳之島の歴史や、ご自分の家系の事や「ノロ」としての活動などが書かれていますが、その中に私が疑問に思っていたことに関係するかもしれないことが書かれていました。
それは徳之島の薩摩侵攻以後の話の中に登場します。

松堂さんの家は、父方が琉球王家の末流を継いでいるため、薩摩によって島の中央の最も不便な所に住まわされたというのです。
四方を仰ぎ見るほどの険山に囲まれ、さらに秋利神川(あきりがみかわ)という急流を必死の思いで渡らぬ限り、他の村に行くことさえできない天然の牢崖に押し込められたのだそうです。
これはどうも、薩摩が琉球王家の血をひく家の者を監視することが目的だったようです。

そこで私はハッとしました。これはもしかして沖永良部島でも同様だったのではないかと。内城の山深い城跡に再度居住するようになったのは、もしかしたら薩摩侵攻以降のことではなかったのかと。再度というのは、伝承にある世之主が自害後に徳之島に避難していた世之主の二男と長女が騒動が収まったあとに帰島し、城の裏手の丘(直城)に住んだといいますから、その後いつの頃かは分かりませんが、この直城から離れて暮らしていたのではないかということです。
これを裏図けるかもしれない事実が1つあります。
当家の記録上の始祖は「中城」と言われる人です。これは本人の名前ではないでしょう。当時は領地や住んでいた場所などの地名が本人の呼び名になっていることが多かったようなので、「中城」とは屋号か呼び名だったと思われます。この「中城」、当初は琉球の中城御殿を指しているのではないかと思っておりましたが、実は沖永良部島の手々知名に中城と呼ばれる小字名があることが分かりました。(この件はVol.201に参照)
この手々知名の中城の地には当家の親族と言われる家があり、「中城」の孫が養子にいったりもしていますので、何らかの関係があったことが分かります。しかしなぜ当家のご先祖様が「中城」と呼ばれていたのかはまだ謎でした。

ここからは私の考察にすぎませんが、薩摩侵攻前は当家のご先祖様は実はこの中城という場所に居住していたのではないかと思うのです。もちろん、先にも書いた世之主自害後に徳之島に避難していた次男が帰島し、城の裏手の直城に住んでいたのは前提です。いつの時代からか、生活の利便性のために山を下りて、この中城で生活していたのではないかということです。
この場所は和泊港に近く、少し小高い場所。薩摩が侵攻してきた当時の1600年頃にこの中城付近がどのような状態だったのかは分かりませんが、港の付近ですのでそれなりに集落もあったと思われます。
徳之島の松堂さんのお家のように、薩摩侵攻後に「中城」という御先祖様は、山深い城跡付近に居住地を移されてしまったのではないかと思うのです。それでご先祖様の呼び名も、もともとの居住地であった「中城」だったのではないかというのが私の考察です。
いやいや、宗家のご先祖様は世之主自害後もずっと直城に住んでいたはずだよとおっしゃる方もいるかもしれません。でもそれも記録はありませんし、私が考える中城に居住説も当然記録はありません。
ただ、様々な疑問と情報がある中で、つなぎ合わせるとこのようなことも考えられるということです。

松堂さんのお家のことを知る前までは、漠然と居住地についての疑問がありましたが、徳之島での出来事を知り、これはかなり可能性が高いのではと思っております。そしてこれが事実ならご先祖様がなぜ「中城」と呼ばれていたのか?そこもしっくりくるような気がします。

もちろんこれを裏図ける資料や記録は今のところ発見出来ていませんので、あくまで仮説の1つにすぎませんが、機会があれば中城にお住いの親戚筋の方にもお話を伺ってみたいところです。
お隣の徳之島の情報からの新しい考察でした。

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