前回までは、沖永良部島や世之主に関わる「おもろさうし」の謡を見てきましたが、今回は沖永良部島の名称が出てくるおもろについて紹介したいと思います。
奄美群島の地名が出てくる謡は46ほどあるようです。(Vol.181で紹介した番号も含む)
琉球時代の奄美の島々は、私が思った以上に琉球国の一員として大きく存在していたのだという印象を、このおもろさうしからは受けました。沖永良部島については17の謡がありましたが、その中で特に気になったものを抜粋してみました。
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巻13 938
勝連が 船遺れ / 請 与路は 橋 / 徳 永良部 / 頼り成ちへ みおやせ
又 ましふりが 船遺れ
勝連、ましふりが船遺れ、請島、与路島は橋にして、徳之島と沖永良部島を頼りにして奉れ
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勝連人の航海だ 諸島・与路島(奄美)を橋渡しにして 徳之島・沖永良部島を頼りにして 国王に奉れ ましふり(人名)が航海だ
このおもろは、沖縄本島の現在は世界遺産にもなっている勝連城がある「うるま市 勝連」のことを歌った謡なのですが、なんとなんと、ここに徳之島や奄美、そして沖永良部の名前が出てきているんですね。
この勝連には、城の最後の城主と言われている阿麻和利(あまわり)が有名です。築城などの詳しいことは分かっていないようですが、九代目の茂知附按司が圧政で民を苦しめていたのを救い、十代目按司として積極的な海外貿易によって力をつけていったといいます。その時期は三山を統一した第一尚氏の時代。
阿麻和利についての詳細は別記したいと思いますが、この勝連が交易によって繁栄していたことは、発掘調査からおびただしい数のヤマトや中国の陶磁器が発掘されていることから分かるそうです。特に阿麻和利が倒した茂知附按司は、茂知附(もちづき)は望月(もちづき)に通ずるので、ヤマト出身者、あるいは倭寇の流れともいわれているそうです。
そんな交易で繁栄していた勝連の全盛期が、この阿麻和利の時代だったのです。
勝連を謡ったこのおもろは、もちろん作られた時期は分かりませんので、阿麻和利が君臨した時代かどうかは分かりません。しかし、勝連が奄美群島の方まで支配力があり、沖永良部島まで関係していたことは分かります。交易ということを考えると、やはり茂知附按司から阿麻和利の時代頃までのどこかで謡っているのではないかと思われます。
1300年後半から北山滅亡の1416年頃までは北山の配下にあったといわれる沖永良部島。その後のことなのか、既にその頃であったのかは定かではありませんが、この勝連と関係があったことは少し驚きでした。
これまで見てきたおもろそうしからは、琉球時代の沖永良部島について、交易によってもたらされた富に溢れた世界がそこにあり、栄華を放っていた世之主が君臨していたことが分かりました。その交易のメインは馬や硫黄鳥島の硫黄だったでしょうし、豊かな恵みに溢れた海から採れた光夜貝もその一つだったでしょう。もしかしたら、今となっては忘れ去られた産物があったのかもしれません。
このおもろそうしに謡われた世之主がいったいいつの時代の人であったのか? 当家のご先祖様を調査する上では、そこがはっきりと知りたいところですが、判明は難しそうですね。
しかし、恐らくですが、1300年後半から1500年代のことだと感じます。ちょうど当家のご先祖様が分からない時代にあたりますが、少しだけご先祖様が見えた気がします。
そしてこの勝連との関係が少し見えたことで、新たな発見がありましたので、それは次回に書きたいと思います。