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先祖を探して

Vol.339 先祖調査旅行記4日目=その3

2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。

親戚宅へ
ランチの後に向かった先は、まだ一度もお会いしたことも、お話しをしたこともない親戚宅です。
なぜこちらのお宅にお邪魔したかったかというと、ある物を見せてもらいたかったからです。
そのある物というのは、内城の古老から話を聞いていた品です。古老がまだお若い時に、多分40年以上前のことだと思いますが、こちらのお宅が内城にお住まいであった頃に、幅が30センチほど、縦が180センチほどの長方形の長い板に、何か文字が書いてあるのを見たことがあると言われていたのです。
叔父にその話をしたら、すぐに確認してくれて、古老がおっしゃるその板が実際に存在していたのです。
古老の記憶はいつもかなり正確で驚かされます。

ご主人と奥様が笑顔で迎えてくださって、色々とお話を伺いながらその長方形の板を見せてもらいました。
掛け軸の両サイドの板が、古老が昔に見たという物でした。
板の大きさ、確かに記憶通りのようです。何やら漢字が書かれています。
左側の板には「龍飛鳳舞」とあり、龍が飛び鳳凰が舞うという意味です。
大きくはばたき、運気を転換し、大望を成就するという縁起のいい言葉のようです。


そして、床の間に置かれている「世徳堂」と書かれている扁額。
こちらは驚きの品でした。右側には「乾隆丙子陽月」とあり、これは1756年10月のことです。左には「涪陵周煌」の名前があります。この人物は1756年夏に琉球の第二尚氏王統の第14代国王尚穆王の時に、冊封使として中国からやってきた役人です。
世徳堂とは中国で西遊記を出版した出版会社というか本屋というか、そんな屋号のところのようです。
なぜこのような物がこちらに存在しているのかは、お家の方は誰も分からないようです。

周煌達は琉球に来るときに海が荒れて久米島付近で遭難しそうになった時に、島の人たちに助けられたそうです。それで帰国の時に久久米島に立ち寄り助けてくれた人達などに、扁額や書をたくさん贈ったそうです。この扁額にも10月と書いてあるので、何かそのあたりが関係している品なのかもしれません。

どうやって入手したのか?何に使われていたのか?不明な扁額ですが、貴重な品であることは間違いないでしょう。これからも家宝として大切に保管してほしいところです。


チュラドゥールへ
次は再びチュラドゥールへGoです。
実は今回の旅の目的の1つでもある、上花城の厨子甕探しをこれからするのです。
お墓に到着すると、親戚たちが集まってくれていました。
お爺さまの家である上花城は、ずっとこのチュラドゥールをお墓としていました。納骨堂には蓋の裏に上花城と書いた大きな厨子甕が置かれていたそうです。その厨子甕が、お爺さま一家が島を出て以降、行方不明なのだそうです。
私が見ても分かるはずはないのですが、蓋の裏に名前があるとのことで、今回納骨堂に入って蓋を開けて甕探しをしたのです。

納骨堂の中は、東が豊山系列、西が宗系列で厨子甕がずらり並んでいました。
中央には空間があって、昔に世之主の墓が崩れた時に、ここに一時的に厨子甕を安置していたのだそうです。その場所がそのまま空間となっていました。


叔父やお墓を管理されているNさんと一緒に探してみましたが、上花城と書かれた甕はみつかりませんでした。
しかし、名前の書かれていない大きな甕がいくつかありましたので、もしかしたらその中のどれかかもしれません。
帰宅後に写真にとった甕を義母に見てもらいましたが、見覚えのあるような甕があるというので、これはまた後日にお墓の管理をしてくれているNさんに確認しようと思います。

納骨堂の中は世之主の墓の納骨堂より広く、大人が立って入れる高さはあります。天井に亀裂が入っており、建造からかなりの時間が経過していることを物語っておりました。この亀裂からか雨水も入るようで、修復が必要なのかもしれません。
琉球式といわれるこのお墓は、文化財として保護していくような話もあるようですので、早く認定されることを願います。

そうそう、このチュラドゥールは納骨堂まで2つの門がありますが、この門は納骨堂から真っすぐには伸びていないそうです。今まで気が付いて無かったのですが、確かにそうです。写真では分かりにくいですが、わずかに西にそれています。



これには理由があるそうで、入口は首里の方を向いているために、西側に斜めになっているのだそうです。これは実際にお墓を管理されているNさんがコンパスで測ってみたそうですが、間違いなかったそうです。
首里か、、、それは豊山家が首里出身だということを示しているのか?
それとも北山王の子孫にあたるはずの宗家が首里と関係があるのか?
1つ謎が出来てしまいました。

それともう1つ、ここの場所にはもともと宗家のお墓があったのだそうです。このチュラドゥールを作った時(想定で1700年前半頃)に、本家筋が出て行ったということでした。
そっか、昔はここにお墓があったのか、、、どんなお墓だったのだろうか?
今の納骨堂の場所が、もしかして風葬墓のような感じだったのか?いろいろと想像が膨らみます。

甕探しが終わると、雨を我慢してくれていた空も少し怪しくなってきて、ポツポツと降り始めましたので、今日はここで解散となりました。


叔母宅へ
解散した後に、叔母宅へ訪問する約束をしていたことを思い出しました。
2日目の歓迎会に来てくれた叔母で義母とも仲良し。さっそく叔母宅に向かいました。
お爺さまが島を出るときには、本家筋の一族であるご主人に世之主神社を任せたのだそうです。
そのご主人は数年前に他界されていますが、ご存命の時にお爺さまの長男が預けていたアタッシュケースを私が受け取ったのでした。
このアタッシュケースには、お爺さまが調査していた頃の資料が沢山はいっていました。

叔母宅では息子さんもいらして、色々と昔話に花が咲きました。大変興味深い話も聞かせてもらい、楽しい時間でした。


今夜の夕食は
今夜はホテルの近くの居酒屋で夕食です。ここは、9年前に島に来た時にも
食べに来たところだと思います。その時には、お爺さまの長女である叔母がご健在で、一緒に来ました。当時の叔母は80歳を超えていまして、「こんなところは初めて来た。こんな料理は初めて食べた。料理がおいしい。」としきりに言っていたのを思い出しました。懐かしい思い出です。

食事の後はホテルに戻ってぐったり。
「今日も貴重な一日を過ごしました。おやすみなさ~い。」でした。


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コメント一覧

yononushi
@dankainogenki さん
ご訪問ありがとうございます。
江戸時代まで遡ってご先祖様が分かったのですね。
今後の子孫のために、しっかり記録に残しておかれたらいいですね。
dankainogenki
私も、両親が生きていたとき、江戸時代のご先祖まで分かったとか。
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