①から続いて・・・
第5章 羽海野チカ「メディア化するということ」
よしなが:そもそもの馴れ初めの話を。~中略~
本当にたまたま共通の知人がいて。
羽海野:「お見合い」をさせてもらったんですよ。
よしなが:お昼を食べて、確かウミノさん、忙しかったんですよ、その日。
そしたら、お茶を飲みに行こうと言う話になって・・・。
ウミノさんがお茶くらいなら・・・って、お茶にしたんですよ。
で、6時が閉店で追い出されて、で、ウミノさんが自分から「お腹すきませんか?」って言ってきて(笑),
「え?仕事は?」って言ったら、「ううん、あのね、大丈夫なの、頑張ってやれば」って。
で、6時に居酒屋に入って、弊店の10時半までいて、追い出されて(笑)、
それで、「珈琲を1杯」って言った時には。もう他の人は笑ってたんだよね。
~中略~
で、ジョナサンに入って二人で結局明け方の4時まで・・・。
羽海野:そう、結局明け方の街をタクシー乗って。結局何時間喋ったんだろう。
よしなが:耐久16時間。~中略~ 初対面で16時間喋るってあなた。
よしなが:マンガ家は分かる事なんだけど、数あるまんがの中から別の畑のクリエーターの人が、
自分の作品を選んでくれたと言うKとの、この嬉しさ、っていうのがあるんです。
駄文誰一人として「もっとせんでんになるから」と言う理由じゃないのよ。
メディア化を受けるって言うのは。
~中略~
羽海野:でも、読者さんから帰ってきた反応は「そんなにまでして売れたいのか」と言うもので・・・
すごくビックリして悲しくなってしまって~中略~
よしなが:読者さんは、それでマンガが面白くなくなってしまうんじゃないか、とか、
人気が出たからとってたらたら長くなっちゃうんじゃないか、とか。
そういうことを心配なさってる。
だから、メディアになってもならなくても、マンガ家の出来る事はいつも一つで、
面白い漫画をベストを尽くして描こうとすること、それだけ。
~中略~
羽海野:よしながさんがね「ドラマも何もみんな通り過ぎていくけれども、単行本だけが残る。
だから、マンガを頑張る事」だって。
「時間が経っても残るのは原作のマンガだけだから、そこを自分で分かっていれば大丈夫だ」って言ってくれて、
あの時は嬉しかった。
第6章 志村貴子「表現は選択できない」
志村:マンガがなかったら、私、本当にすごく社会不適合者なんですよ。
だから、よかった、マンガがあってって思う。
よしなが:私、マンガのいかがわしいところが好きなんです。
だから、それが理由で小説やほかのエンターテイメントなジャンルから低く見られるならそれでもいいと思うの。
ちょっと得ろ買ったり、何かの際々ま部分を描いていたり、そこが好きなんだもん。
間違っても文部省ご推薦、みたいにならないように、そんな認められ方はしなくていいと思って。
よしなが:ネガティブ思考だから、人生の怖い可能性を全部考えてしまうんです。
志村:私はネガティブ思考のくせに自分に甘いから、なんとかなるさって思っちゃう(笑)。
~中略~
でも、社会性に欠けるからマンガ家になったようなものなのに、
ここでもやっぱり社会性が求められるんだなぁと思うことってありません。
よしなが:長くマンガ家をやってらっしゃる方ほど社会性が高かったりして、
どういうサバイバルゲームなんだ!って思うことがあります(笑)。
どこでも世間は甘くないって事なんですよね、きっと。
よしなが:男性と女性とでは、萌えに関して大きく違いますよね。
女性の萌えは、関係性に萌える。
志村:男性は属性に萌えますよね。単体のキャラに萌える。
~中略~
女性は、キャラが二人いるときの言動に萌えるんですよね。
だからなのか、女の人が好きな伽羅を語る問いは、
そのキャラがだれそれにこういう事をして、とエピソードで語ることが多いけれど
男の字とのキャラ萌えはそのキャラの外見や属性について語っている気がする。
第7章 萩尾望都「マンガ=24年組というくらい…」
よしなが:『トーマの心臓』も、最初にトーマが死んでしまうわけですが、その分からなさが怖かったんですよ。
最後まで読んでも子供の(頃の)私には腑に落ちないところもあって、そのわからなさがまた怖かった。
でも、萩尾先生の作品に出会えて本当に良かったと思ってます。
萩尾:そんなふうに言っていただけて、どうもありがとうございます。
よしなが:いえ、とんでもない。
こちらこそ子供の頃から贅沢なものを読ませていただいて、ありがとうございます。
たとえば萩尾先生の『スター・レッド』などの作品を子供の頃に読んでしまうと
それがスタンダードというか当たり前だと思ってしまって、のちにいろいろ読んでそれは違うと言うkとが分かるんですが。
毎日贅沢なものばかり食べていた子供みたいに、当たり前のように普通に食べていたものが全然普通の食べ物ではなかったということに後に気付く、というか。
よしなが:私、『銀の三角』は何度読んでも、5分の4くらい読んだところでなんだか分かったような気がするんですが、
最後まで読み終わると、「このままでは人に粗筋を説明できん・・・」と思ってまた読み直そうとするんです。
~中略~
結局、そのラグトーリンが誰だったのか明白にはされていなくて、なんとなくわかるようにはなってるとうか。
~中略~
萩尾:世界の綻びの上に立つように言われた、お針子さんみたいな存在かもしれないですしね。
ラグトーリンのことを何かの媒体だと言う人もいます。
よしなが:萩尾先生は、『マージナル』の「地球の見た夢をキラが最後に見るんだ」と言うようなセリフだったり、
『銀の三角』の「結び目だったパントーもほどけていなくなった」というようなセリフだったり、
そういう一言でするっとその世界の事を端的に説明されることがありますよね。
そして、その言葉を目にした瞬間には、その世界のことがすべてわかったような気がするんですが、
最後まで読み終わるとなんだかふわっとした気分になってしまって・・・。
萩尾先生の、特にSF作品を読み終わったときは、なんともいえない不思議な読後感があります。
よしなが:よく親は子供のことを何があっても愛しているというけれど、本当は逆なんじゃないかと思います。
だって、そうじゃない親もいるし。
でも、小さな子供は間違いなくどんな親でも親のことを愛してると思うんです。
萩尾:子供は親に依存しないと生きていけませんものね。
~中略~
よしなが:萩尾先生の場合『訪問者』も親子者といえばそうなんですが、『イグアナの娘』はちょっと違う。
ターニングポイントのような作品なんじゃないのかしら、と思ったんです。
萩尾:親子問題というのは、私がずっと抱えていた問題なんです。
それまでにも、どうして親子でこんなにうまくいかないのかと、心理学などいろいろな本を読んでいたのですが
あるときふと占いの本を見たら「親子でも相性の悪い場合がある」というようなことが書かれていたんです。
そのときに、これが答えなのかな、とおもいました。
相性が悪いと言うのはどうしようもないじゃないですか。
だから、産んだ娘がイグアナだったら、これはもう完全に相性が悪い。
愛せないわけですから。
でも、娘がイグアナなんだから、本当は生んだお母さんだってイグアナなんじゃないのって。
タダ自分の中の見つめたくないぶぶんだからそうは見えていないだけで、
本当はそうなんじゃないのって、思ったんですよね。
~中略~
萩尾:『残酷な神が支配する』を描いてるときまでは、大人は大人で、子供は子供という距離感がとてもあった。
ところが、あの作品を描き終えてから、じぶんもとうに大人の癖して、大人だから完璧ではないんだな、と思うようになりました。
親は自分にとって完璧な絶対神のような感じがあったのですが、親も人間だしいろいろあるよね、と。
それでやっと『バルバラ異界』で大人のお父さんを主人公に描いて、あれ以来日本物を描くのが少し楽になりました。
第5章 羽海野チカ「メディア化するということ」
よしなが:そもそもの馴れ初めの話を。~中略~
本当にたまたま共通の知人がいて。
羽海野:「お見合い」をさせてもらったんですよ。
よしなが:お昼を食べて、確かウミノさん、忙しかったんですよ、その日。
そしたら、お茶を飲みに行こうと言う話になって・・・。
ウミノさんがお茶くらいなら・・・って、お茶にしたんですよ。
で、6時が閉店で追い出されて、で、ウミノさんが自分から「お腹すきませんか?」って言ってきて(笑),
「え?仕事は?」って言ったら、「ううん、あのね、大丈夫なの、頑張ってやれば」って。
で、6時に居酒屋に入って、弊店の10時半までいて、追い出されて(笑)、
それで、「珈琲を1杯」って言った時には。もう他の人は笑ってたんだよね。
~中略~
で、ジョナサンに入って二人で結局明け方の4時まで・・・。
羽海野:そう、結局明け方の街をタクシー乗って。結局何時間喋ったんだろう。
よしなが:耐久16時間。~中略~ 初対面で16時間喋るってあなた。
よしなが:マンガ家は分かる事なんだけど、数あるまんがの中から別の畑のクリエーターの人が、
自分の作品を選んでくれたと言うKとの、この嬉しさ、っていうのがあるんです。
駄文誰一人として「もっとせんでんになるから」と言う理由じゃないのよ。
メディア化を受けるって言うのは。
~中略~
羽海野:でも、読者さんから帰ってきた反応は「そんなにまでして売れたいのか」と言うもので・・・
すごくビックリして悲しくなってしまって~中略~
よしなが:読者さんは、それでマンガが面白くなくなってしまうんじゃないか、とか、
人気が出たからとってたらたら長くなっちゃうんじゃないか、とか。
そういうことを心配なさってる。
だから、メディアになってもならなくても、マンガ家の出来る事はいつも一つで、
面白い漫画をベストを尽くして描こうとすること、それだけ。
~中略~
羽海野:よしながさんがね「ドラマも何もみんな通り過ぎていくけれども、単行本だけが残る。
だから、マンガを頑張る事」だって。
「時間が経っても残るのは原作のマンガだけだから、そこを自分で分かっていれば大丈夫だ」って言ってくれて、
あの時は嬉しかった。
第6章 志村貴子「表現は選択できない」
志村:マンガがなかったら、私、本当にすごく社会不適合者なんですよ。
だから、よかった、マンガがあってって思う。
よしなが:私、マンガのいかがわしいところが好きなんです。
だから、それが理由で小説やほかのエンターテイメントなジャンルから低く見られるならそれでもいいと思うの。
ちょっと得ろ買ったり、何かの際々ま部分を描いていたり、そこが好きなんだもん。
間違っても文部省ご推薦、みたいにならないように、そんな認められ方はしなくていいと思って。
よしなが:ネガティブ思考だから、人生の怖い可能性を全部考えてしまうんです。
志村:私はネガティブ思考のくせに自分に甘いから、なんとかなるさって思っちゃう(笑)。
~中略~
でも、社会性に欠けるからマンガ家になったようなものなのに、
ここでもやっぱり社会性が求められるんだなぁと思うことってありません。
よしなが:長くマンガ家をやってらっしゃる方ほど社会性が高かったりして、
どういうサバイバルゲームなんだ!って思うことがあります(笑)。
どこでも世間は甘くないって事なんですよね、きっと。
よしなが:男性と女性とでは、萌えに関して大きく違いますよね。
女性の萌えは、関係性に萌える。
志村:男性は属性に萌えますよね。単体のキャラに萌える。
~中略~
女性は、キャラが二人いるときの言動に萌えるんですよね。
だからなのか、女の人が好きな伽羅を語る問いは、
そのキャラがだれそれにこういう事をして、とエピソードで語ることが多いけれど
男の字とのキャラ萌えはそのキャラの外見や属性について語っている気がする。
第7章 萩尾望都「マンガ=24年組というくらい…」
よしなが:『トーマの心臓』も、最初にトーマが死んでしまうわけですが、その分からなさが怖かったんですよ。
最後まで読んでも子供の(頃の)私には腑に落ちないところもあって、そのわからなさがまた怖かった。
でも、萩尾先生の作品に出会えて本当に良かったと思ってます。
萩尾:そんなふうに言っていただけて、どうもありがとうございます。
よしなが:いえ、とんでもない。
こちらこそ子供の頃から贅沢なものを読ませていただいて、ありがとうございます。
たとえば萩尾先生の『スター・レッド』などの作品を子供の頃に読んでしまうと
それがスタンダードというか当たり前だと思ってしまって、のちにいろいろ読んでそれは違うと言うkとが分かるんですが。
毎日贅沢なものばかり食べていた子供みたいに、当たり前のように普通に食べていたものが全然普通の食べ物ではなかったということに後に気付く、というか。
よしなが:私、『銀の三角』は何度読んでも、5分の4くらい読んだところでなんだか分かったような気がするんですが、
最後まで読み終わると、「このままでは人に粗筋を説明できん・・・」と思ってまた読み直そうとするんです。
~中略~
結局、そのラグトーリンが誰だったのか明白にはされていなくて、なんとなくわかるようにはなってるとうか。
~中略~
萩尾:世界の綻びの上に立つように言われた、お針子さんみたいな存在かもしれないですしね。
ラグトーリンのことを何かの媒体だと言う人もいます。
よしなが:萩尾先生は、『マージナル』の「地球の見た夢をキラが最後に見るんだ」と言うようなセリフだったり、
『銀の三角』の「結び目だったパントーもほどけていなくなった」というようなセリフだったり、
そういう一言でするっとその世界の事を端的に説明されることがありますよね。
そして、その言葉を目にした瞬間には、その世界のことがすべてわかったような気がするんですが、
最後まで読み終わるとなんだかふわっとした気分になってしまって・・・。
萩尾先生の、特にSF作品を読み終わったときは、なんともいえない不思議な読後感があります。
よしなが:よく親は子供のことを何があっても愛しているというけれど、本当は逆なんじゃないかと思います。
だって、そうじゃない親もいるし。
でも、小さな子供は間違いなくどんな親でも親のことを愛してると思うんです。
萩尾:子供は親に依存しないと生きていけませんものね。
~中略~
よしなが:萩尾先生の場合『訪問者』も親子者といえばそうなんですが、『イグアナの娘』はちょっと違う。
ターニングポイントのような作品なんじゃないのかしら、と思ったんです。
萩尾:親子問題というのは、私がずっと抱えていた問題なんです。
それまでにも、どうして親子でこんなにうまくいかないのかと、心理学などいろいろな本を読んでいたのですが
あるときふと占いの本を見たら「親子でも相性の悪い場合がある」というようなことが書かれていたんです。
そのときに、これが答えなのかな、とおもいました。
相性が悪いと言うのはどうしようもないじゃないですか。
だから、産んだ娘がイグアナだったら、これはもう完全に相性が悪い。
愛せないわけですから。
でも、娘がイグアナなんだから、本当は生んだお母さんだってイグアナなんじゃないのって。
タダ自分の中の見つめたくないぶぶんだからそうは見えていないだけで、
本当はそうなんじゃないのって、思ったんですよね。
~中略~
萩尾:『残酷な神が支配する』を描いてるときまでは、大人は大人で、子供は子供という距離感がとてもあった。
ところが、あの作品を描き終えてから、じぶんもとうに大人の癖して、大人だから完璧ではないんだな、と思うようになりました。
親は自分にとって完璧な絶対神のような感じがあったのですが、親も人間だしいろいろあるよね、と。
それでやっと『バルバラ異界』で大人のお父さんを主人公に描いて、あれ以来日本物を描くのが少し楽になりました。