地上に降り立った彼らは、我先にと夜空を見上げた。肉眼ではわからないが、赤い彗星の位置をしっかりと見すえると、耳をすませ、人には決して聞こえない指令を受け取った。
指令を受けた使者達は、すぐに自分達に与えられた仕事に取りかかった。
――――……
寝静まった民家の前。すべるように通り過ぎる影があった。
姿は見えなくとも、利口な番犬は、動き流れる空気の温度の違いに気がつき、警戒の声で吠えたてた。
めずらしく深夜に吠える愛犬の様子をうかがうため、飼い主が寝ぼけまなこでカーテンの端をめくり上げた。
外を見ると、家の外で、街灯にちらりと照らされた人影が、しんと寝静まった人気のない通りを、音もなく遠ざかっていくのが見えた。
飼い主を気にしながら、犬はさかんに、怪しい人影の正体を知らせようとした。
しかし、眠そうにあくびをした飼い主は、なにごともなかったようにまわれ右をすると、温もりの残った寝床へ戻っていった。
光に乗って移動する彼らの目的地は、人々の集まる街だった。肉体を持たない彼らは、ある者は人の心の中に住み着き、ある者は病原菌をあやつり、またある者は電波の中にその位置を占めた。
彼らの仕事は、宇宙を駆ける赤い彗星を、地上の衝突地点に導くことだった。
――――……
光の矢となったノアは、暗い夜の海に落ちた。
――ズドン。
と、大きな水しぶきがあがった。いや、確かにあがったはずなのだが、水面にはさざ波のひとつもたっていなかった。
闇夜に包まれた海に、静寂が戻った。やがて、朝日が昇りはじめた。満ちていた潮が、静かに沖へと引いていった。
こんもりと、見れば人の形をした不思議な砂山が、波打ち際から、潮が引いた後の砂浜に、徐々に現れてきた。
ずんぐりとした砂山が姿を現すと、不意に強い風が吹き始めた。風は、竜巻のような砂けむりをもうもうと巻きあげ、砂浜をなめるように通り過ぎていった。
砂山の一部が欠け落ち、人の腕が、砂の下からにょきりと顔をのぞかせた。
ゆっくりと動き出した腕は、手探りをするように伸ばした手で、指先に触れた砂をぎゅっとつかんだ。
砂山から伸びた腕が、ぶるん、と身震いをすると、全身を覆っていた砂が、ザザーッと、ひと息に崩れ落ちた。
人のような、しかし人とは明らかに違う、真っ白な翼の生えた背中が現れた。
砂の中でうつ伏せていたノアは、しっかりと両手をつくと、苦しそうな息をしながら立ちあがった。
地上に降りたノアは、海から産まれた。その体は、海でできていた。人と、形がそっくりな器の中身を、たっぷりの海水で満たしたのと同じだった。
ノアは翼を広げた。全身に張りついていた砂が、ザザッとこぼれるように流れ落ちた。
「――」と、ノアは不思議そうに後ろを見上げた。
片方の翼が、中ほどから折れたまま、広がらなかった。
折れた翼の先が、石のように固まっていた。
どうやら、急ごしらえの人体は、すぐには自由にならないようだった。神でさえ、世界を作るのに7日間かかったことを考えれば、にわかに創造した人体が不完全なものであっても、やむを得ないことだった。
ノアは、大きくひとつ、羽ばたいた。
体が、ふわりと宙に舞った。しかし、高く舞い上がることはできなかった。
体の不調は、翼だけではなかった。海でできた体のせいか、頭の中が、波のように寄せては返す痛みで、ズキズキとしていた。
体温の調整もままならないのか、海から陸にあがったばかりの体は冷えきっていて、小さな震えが止まらなかった。動くたび、硬い氷をこすり合わせたような軋み音が、体の節々から、ガクガクと聞こえてきそうだった。
背中の翼も、付け根から小さく震え、動かそうとしても、自由に羽ばたくことはできなかった。
思わぬ症状に顔をゆがめながらも、ノアはおぼつかない足取りで、進んで行かなければならなかった。
行き先はわかっていた。彗星を呼び寄せる、祈りの声が聞こえる場所だった。
――――
彗星よりの使者に操作された人々は、自由意志を浸食され、黒い闇へと通じる思いを、知らず知らず膨らませていた。思いは、祈りとなって時空間を貫き、ほとんど無時間のうちに宇宙の彼方まで届けられた。赤い彗星は、人々の思いに導かれていた。黒い思いが強ければ強いほど、赤い彗星は秘められた内部の温度を上げ、その速度を早めた。
彗星は、人々の黒い闇の思いを吸収しながら、どんどんとその大きさを増し、ますます力をつけていった。
――――
地上では、赤い彗星に対する特別対策会議が開催されていた。世界中の関係者が、秘密裏に会議へ招集された。
指令を受けた使者達は、すぐに自分達に与えられた仕事に取りかかった。
――――……
寝静まった民家の前。すべるように通り過ぎる影があった。
姿は見えなくとも、利口な番犬は、動き流れる空気の温度の違いに気がつき、警戒の声で吠えたてた。
めずらしく深夜に吠える愛犬の様子をうかがうため、飼い主が寝ぼけまなこでカーテンの端をめくり上げた。
外を見ると、家の外で、街灯にちらりと照らされた人影が、しんと寝静まった人気のない通りを、音もなく遠ざかっていくのが見えた。
飼い主を気にしながら、犬はさかんに、怪しい人影の正体を知らせようとした。
しかし、眠そうにあくびをした飼い主は、なにごともなかったようにまわれ右をすると、温もりの残った寝床へ戻っていった。
光に乗って移動する彼らの目的地は、人々の集まる街だった。肉体を持たない彼らは、ある者は人の心の中に住み着き、ある者は病原菌をあやつり、またある者は電波の中にその位置を占めた。
彼らの仕事は、宇宙を駆ける赤い彗星を、地上の衝突地点に導くことだった。
――――……
光の矢となったノアは、暗い夜の海に落ちた。
――ズドン。
と、大きな水しぶきがあがった。いや、確かにあがったはずなのだが、水面にはさざ波のひとつもたっていなかった。
闇夜に包まれた海に、静寂が戻った。やがて、朝日が昇りはじめた。満ちていた潮が、静かに沖へと引いていった。
こんもりと、見れば人の形をした不思議な砂山が、波打ち際から、潮が引いた後の砂浜に、徐々に現れてきた。
ずんぐりとした砂山が姿を現すと、不意に強い風が吹き始めた。風は、竜巻のような砂けむりをもうもうと巻きあげ、砂浜をなめるように通り過ぎていった。
砂山の一部が欠け落ち、人の腕が、砂の下からにょきりと顔をのぞかせた。
ゆっくりと動き出した腕は、手探りをするように伸ばした手で、指先に触れた砂をぎゅっとつかんだ。
砂山から伸びた腕が、ぶるん、と身震いをすると、全身を覆っていた砂が、ザザーッと、ひと息に崩れ落ちた。
人のような、しかし人とは明らかに違う、真っ白な翼の生えた背中が現れた。
砂の中でうつ伏せていたノアは、しっかりと両手をつくと、苦しそうな息をしながら立ちあがった。
地上に降りたノアは、海から産まれた。その体は、海でできていた。人と、形がそっくりな器の中身を、たっぷりの海水で満たしたのと同じだった。
ノアは翼を広げた。全身に張りついていた砂が、ザザッとこぼれるように流れ落ちた。
「――」と、ノアは不思議そうに後ろを見上げた。
片方の翼が、中ほどから折れたまま、広がらなかった。
折れた翼の先が、石のように固まっていた。
どうやら、急ごしらえの人体は、すぐには自由にならないようだった。神でさえ、世界を作るのに7日間かかったことを考えれば、にわかに創造した人体が不完全なものであっても、やむを得ないことだった。
ノアは、大きくひとつ、羽ばたいた。
体が、ふわりと宙に舞った。しかし、高く舞い上がることはできなかった。
体の不調は、翼だけではなかった。海でできた体のせいか、頭の中が、波のように寄せては返す痛みで、ズキズキとしていた。
体温の調整もままならないのか、海から陸にあがったばかりの体は冷えきっていて、小さな震えが止まらなかった。動くたび、硬い氷をこすり合わせたような軋み音が、体の節々から、ガクガクと聞こえてきそうだった。
背中の翼も、付け根から小さく震え、動かそうとしても、自由に羽ばたくことはできなかった。
思わぬ症状に顔をゆがめながらも、ノアはおぼつかない足取りで、進んで行かなければならなかった。
行き先はわかっていた。彗星を呼び寄せる、祈りの声が聞こえる場所だった。
――――
彗星よりの使者に操作された人々は、自由意志を浸食され、黒い闇へと通じる思いを、知らず知らず膨らませていた。思いは、祈りとなって時空間を貫き、ほとんど無時間のうちに宇宙の彼方まで届けられた。赤い彗星は、人々の思いに導かれていた。黒い思いが強ければ強いほど、赤い彗星は秘められた内部の温度を上げ、その速度を早めた。
彗星は、人々の黒い闇の思いを吸収しながら、どんどんとその大きさを増し、ますます力をつけていった。
――――
地上では、赤い彗星に対する特別対策会議が開催されていた。世界中の関係者が、秘密裏に会議へ招集された。