1 『北史』『隋書』新羅伝には、「新羅の風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は太陽の神・月の神を祭祀して拝む。八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める」とある。
2 『北史』『隋書』新羅伝では風俗、祭祀は高麗、百済と同じである、とするが正月・八月十五日の行事は高麗、百済にはないからあえて書いたものと解する。これにより盆・正月の行事は新羅がルーツであると思われる。
初期の辰(秦)韓を造った徐福は道教の方士であったから、盆・正月は道教に基づいているのかもしれない。「旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる」(ウィキペディア)
新羅がルーツの行事は厳かな行事である。八月十五日には官人たちに施しをする賞品のでる流鏑馬を行っていたようである。八月十五日の行事が僧侶たちに施しをして成仏できる、とする仏教のお盆になった。
逆に高句麗・百済がルーツの行事は派手で賑やかな行事である。神楽は高句麗・百済がルーツの行事である。