稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。
孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。
稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社
1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃
岡山県岡山市青江170 天野八幡宮
岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社
岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社
岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
岡山県津山市沼430 齋神社
岡山県津山市綾部1086 綾部神社
岡山県真庭郡久世町大字久世948 朝日神社
岡山県苫田郡奥津町久田下原43 久田神社
岡山県浅口郡金光町大字下竹736 大森神社
岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663 大森神社 大森神社
広島県福山市赤坂町大目456 生田神社
広島県呉市西川原石町6-21 照日神社
広島県広島市安芸区船越4-13-1 岩瀧神社摂社新宮社
広島県廿日市市串戸3丁目7-1 廣田神社
山口県玖珂郡周東町獺越1462 河内神社
山口県玖珂郡周東町大字三瀬川845 河内神社
山口県玖珂郡美和町大字阿賀432 速田神社
2 土蜘蛛の平定
鳥取県岩美郡国府町大字新井395 折井神社
※ 近くに武王大明神(倭建命)を祀った神護神社があるのでここでも出雲族(土蜘蛛)を平定している。
3 妻木晩田を攻撃し、南部町手間山に逃げ込んだ出雲族(兄の八十神)を麓で捉えた。ただし、孝霊天皇や倭姫命を祀っている神社も合わせて初めてこの史実がわかる。
鳥取県西伯郡大山町上万1124 壹宮神社
鳥取県西伯郡名和町大字古御堂378 前田神社
鳥取県西伯郡名和町大字加茂477 賀茂神社
鳥取県西伯郡淀江町大字西原767 日吉神社
鳥取県西伯郡西伯町大字馬場1 長田神社
4 鬼住山への攻撃
岡山県真庭郡川上村西茅部1501 茅部神社
岡山県真庭郡八束村中福田392 福田神社
鳥取県日野郡江府町大字吉原903 吉原神社
※ 栃原の山田神社には孝霊天皇が祀られている。
鳥取県西伯郡岸本町番原727 植松神社
5 大倉山の鬼
鳥取県日野郡日野町舟場851 嚴島神社
6 鬼林山の鬼
鳥取県日野郡日南町新屋70 多里神社
広島県庄原市市町1599 田原神社
7 出雲本隊への攻撃(山越)
島根県安来市赤江町400 安屋神社
島根県大原郡大東町大字中湯石1446 日原神社
島根県大原郡大東町大字遠所754 艮神社
※ 出雲の振根を倭建命が殺したのもこの時である。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時、隠された。
8 西国平定
※ 神倭磐余彦たちと同じように山口県光市から船で大分県宇佐に渡った。
大分県宇佐市大字南宇佐2859番地 宇佐神宮摂社養蚕神社
大分県宇佐市大字下矢部666番地 歳神社
大分県大分市大字上宗方316番地 大明神社
大分県津久見市大字徳浦87番地ノ1 徳浦神社
※ 熊本県に行く途中の阿蘇山の周辺で多くの鬼八を平定している。弥生時代後期の鉄鏃が阿蘇山の周辺で三百余り出土している。この時代、鉄鏃を使用していたのは、鳥取県中部にいた一族であった。
熊本県玉名郡南関町四原1538 柿原神社
※ 和水町の江田船山古墳の近くに熊襲はいた。
熊本県玉名郡長洲町長野1274 四王子神社 摂社若一皇子社
※ 熊襲のあとは天草を平定している
熊本県天草郡河浦町河浦5015-2 一町田八幡宮
熊本県天草郡河浦町路木2777 路木十五柱神社摂社生田神社
熊本県牛深市牛深町3198 牛深八幡宮摂社岡郷金刀比羅神社
9 中国へ行く拠点を朝鮮半島につくって(任那を初めて開設した)新羅から帰ってきた(173年)。
出港 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社
※ 稚日女は若宮神社から朝鮮半島に向けて出港した。
帰港 島根県簸川郡大社町大字日御碕455 日御碕神社 摂社立花神社
※ 天照大神と須佐之男も辰韓から最初に出雲の日御碕神社に寄港しているので、稚日女と倭建命も朝鮮半島の新羅から出港している。海流の流れがそうなっている。
島根県八束郡美保関町片江721 方結神社
※ 片江を経由して鳥取県北栄町大島に帰還している。
10 倭国歴史書原本には倭国大乱についても記載があった。稚日女(倭迹迹日百襲姫命)は孝霊天皇と大吉備津彦と若日子建吉備津日子(倭建命)との連携で鬼や出雲軍本体を攻撃したことは明確に書いてあったはずである。しかし、藤原氏は自分たちの先祖が平定されていく様を残すわけにはいかず、古事記・日本書紀には直接には書かなかった。