「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった(1)

2018-07-20 05:20:27 | 欠史八代
1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居たから宮内という地名が付けられたと思われる。鳥取県西部の宮内はこの2か所だけである。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の1か所だけである。この東郷池の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田庵戸宮と思われる。
 下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田庵戸宮であった。

 宮内集落である。

2  私見
 出雲神族(準王一族)が孝霊天皇一族を追い出したのである。
 出雲神族(準王一族)は倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。
 出雲神族(準王一族)は青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。
 孝霊天皇一家は親戚の但馬にいた天之日矛一族を頼って但馬に10年ほど疎開していた。

3  湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。
 倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)
 主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。
 倭文神社の神社名は倉吉市志津にある倭文神社の神社名を持ってきたと思われる。藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。


最新の画像もっと見る