1 鳥取県教育文化財団調査報告書 (重要だと思われる部分のみ抜粋)
遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地 鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山
公開日 :2014-03-13
http://sitereports.nabunken.go.jp/13629
ぜひご覧になってください。
発掘 1995年より
遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地 鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山
公開日 :2014-03-13
http://sitereports.nabunken.go.jp/13629
ぜひご覧になってください。
発掘 1995年より
出典文献名:鳥取県教育文化財団『宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳』1996年
遺跡概要
集落跡-弥生後期~古墳前期 竪穴住居跡18+土溝21+溝6
弥生土器+土師器+勾玉+管球+ガラスこだま+槍鉋+洲木崎+防錆内行立夏文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末 墳丘墓4+土壙墓84
弥生土器+管球+鉄剣+鉄刀+槍鉋+鉄カマ+刀子
遺跡概要
集落跡-弥生後期~古墳前期 竪穴住居跡18+土溝21+溝6
弥生土器+土師器+勾玉+管球+ガラスこだま+槍鉋+洲木崎+防錆内行立夏文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末 墳丘墓4+土壙墓84
弥生土器+管球+鉄剣+鉄刀+槍鉋+鉄カマ+刀子
F3 鉄刀 107.2cm+6.8cm 宮内第5遺跡2号墳
出典文献の210頁「挿図271」を転載
出典文献の247頁「挿表19」を転載
F5 鉄刀 94.5cm 宮内第1遺跡1号墳
出典文献の55頁「挿図58」を転載
出典文献の247頁「挿表18」を転載
特記事項
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第1遺跡1号墓からは全長 94 cmの大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。 出典文献の「報告書抄録」の特記事項から引用
まとめ
今回の調査では、宮内第1遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、1号墓、3号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。
なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。
1996年 出典文献の238頁を引用
2 遺跡所在地
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第1遺跡1号墓からは全長 94 cmの大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。 出典文献の「報告書抄録」の特記事項から引用
まとめ
今回の調査では、宮内第1遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、1号墓、3号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。
なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。
1996年 出典文献の238頁を引用
2 遺跡所在地
上(C区)と真ん中(D区)が第1遺跡である。今は崩されて道路になっている。
出典文献の2頁「挿図1」を転載
工事後の宮内の空撮
左が宮内集落。中央上あたりが第1遺跡(D区)である。
出典文献の「図版1」を転載
両サイドの丘がつながっていてその上に宮内第1遺跡があった。
第1遺跡(D区)からは下蒜山、大山、茶臼山、長瀬高浜などが見え、出雲山より見晴らしが良い。出雲山の伝承はのちに藤原氏によって造られたのではないか。下照姫は宮内から出雲山まで行かなくても、より近いここで総てが見渡せる。
3 私見
地元の人の言っていた「宮内の古墳」とは平安時代の経塚(国宝であり奉納したのは藤原氏)のことであった。第1遺跡の1号墳や3号墳は道路工事で崩されて無くなっていた。
宮内遺跡で弥生時代後期の大小7本の鉄剣や鉄刀が見つかったこと(日本で最長の鉄刀を含む)は全国的にみても大きな意味がある。私見によると、孝霊天皇は120年頃の生誕で倭国(鳥取県中部を都とする小国の連合国家)の大王であり、九州も従っていた。159年頃には鳥取県にいた出雲族の反乱により鳥取県湯梨浜町の黒田宮(倭文神社)をあとにして但馬(竹野川流域)に疎開していたから、孝霊天皇一族(孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・卑弥呼)が黒田宮(倭文神社)に居たのは弥生時代後期である。