1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。
2 日本書紀・推古天皇・新羅征討の再開で田中臣が言う。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区間さえも偽りがある。およそその言うところは皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」とある。新羅王は「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内官家と定め、心配なさいませぬように」といった。ここに書いてあることはほぼ改ざんがないと思われる。日本書紀はその百済人が制作した。
3 古事記・素戔嗚命・八雲立つの条に「素戔嗚命と稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」とする。しかし、根国での冒険の条で、大国主命は素戔嗚命の娘の須勢理毘売をさらって逃げているので素戔嗚命の孫ではない。先代旧事本記には「八島士奴美神又の名を大国主」とある。また、八橋の地名由来でも「素戔嗚命の孫である高姫」とある。高姫は大国主命の娘である。素戔嗚は大国主と血のつながった父子であると解される。したがって、「櫛稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」は改ざんされている。大国主は素戔嗚と稲田姫との間に出来た子であった。系譜の強奪の一例である。
4 日本書紀は系譜を倭国歴史書原本とは変えて書いている。たとえば、日本書紀では倭建命を景行天皇の皇子としているが、倭建命は孝霊天皇の皇子であった。西国遠征で鳥取県北栄町島に帰ってくるまでは皇太子であったが、孝元天皇が青銅器文化の一族に襲われ亡くなったので、東国遠征のときには卑弥呼の推薦により開化天皇になった。倭建命の名は、肥前国風土記では「日本武尊」、常陸国風土記には「倭武天皇」とある。尾張国氷上姉子神社元社の宮簀媛命宅跡の石碑には「倭武天皇皇妃」とある。
景行天皇の「冬十月、碩田国に着かれた~」よりは大分県ではなく、鳥取県の因幡国が舞台である。主語の天皇は孝霊天皇である。孝霊天皇は皇居を去ってから、但馬に疎開していたが10年後、但馬より因幡・伯耆を通って青銅器文化の一族を平定した。因幡誌では「日本書紀の稲葉川というのは鳥取の因幡川のことである」とする。藤原氏は「稲葉」を「因幡」に変えさせている。
出雲国(伯耆国にいた素戔嗚の歌より)・日向国(伯耆国にあった地名)・筑紫国(伯耆国にあった地名)・伊勢国(伯耆国にあった地名)・紀伊国(因幡国にあった木国より)などの国名は藤原氏の「好字二字化令(713年)」によって定められた。これは地名の強奪である。
5 古事記・神功皇后・新羅を伐つ・で神功皇后が新羅を伐ってから言った。「新羅の国を馬飼である御馬甘と定めた」とある。また「日本書紀・神功皇后・新羅出兵」にも「今後は末永く服従して、馬飼となりましょう」とある。新羅の古墳から馬具が発掘されている。新羅は馬と深く関係する。倉吉市馬場町で馬を飼っていた阿直岐(日本書紀)の出身国は百済国ではなく新羅国であった。新羅の歴史を百済が強奪した一例である。
6 天武天皇の時代も伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
「日本書紀・天武天皇・即位」2年に「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった」とある。この時にはまだ伊勢国には伊勢神宮はなかった。あったのは志摩国に卑弥呼の造った伊雜宮と卑弥呼の終の棲家の伊射波神社と聖徳太子の造った千田寺であった。魏志倭人伝に「シマ」国はある。
734年まで伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。伊勢国の伊勢神宮はまだできていなかった。
奈良時代に土佐の国から池田王が藤原氏から逃れて、伊勢野の皇大神宮に助けを求めて来て、神官になって助かったという記述がある(方見神社由緒より)。天武天皇が鳥取県中部の出身だということを知っていたから伊勢野の天照皇大神宮を頼ってきた。その後池田王は琴浦町逢束(王塚)で亡くなったという伝承がある。奈良時代すでに鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮は全国に知られていた。天武天皇の大来皇女が斎王となった伊勢神宮とは鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
天武天皇の在位中に伯耆国に大御堂廃寺と斉尾廃寺と上淀廃寺と大寺廃寺を建立している。琴浦町の斉尾廃寺は伽藍配置が法隆寺と同じであり、蘇我氏の本宗家が近く(4km東方の北栄町由良)にあったことをうかがわせる。
上淀白鳳の丘 展示館にて