「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

日本書紀36代の期間と41代の期間の倭国天皇は蘇我倉山田石川麻呂天皇と高市天皇であった

2018-08-03 08:42:27 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  天武天皇は政略結婚を提案したのであろうか。
 中大兄王子(豊璋)は第29代蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺害してから(649年)倭国(鳥取県中部)には賊に暗殺されたと報告していた。天武天皇は649年に倉吉市葵町の賀茂皇大神宮を皇居とし、第30代倭国天皇として即位した。
 天智と鎌足は倭国天皇の天武天皇に対し「六韜」に基づいて「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、・・・」を実行した。ただ、寵姫の額田王は美人であり効果が薄いと思ったので額田王を天武天皇から離す策略に出た。
 660年に大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。倭国王家から百済王家には額田王と十市皇女が行かされた。これを提案したのは天智と鎌足である。天智と鎌足は「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」も実行した。天武天皇は判断力が鈍っていた。額田王は鳥取県伯耆町大殿(大寺廃寺の近く)出身である。ちなみに小野小町も鳥取県伯耆町出身である。
 大国主命も米子市長砂町の胸形にいた多紀理毘売命を鳥取県北栄町の葦原中津国に娶った。青森におられる棟方氏から連絡がありました。棟方氏は江戸時代までは「胸形」と書き山陰(米子)にいてその後北九州に行かされたが、今は青森にいる、ということであった。鳥取県北栄町にいた事代主(伊須気余理比売の先祖)も大物主(子孫は大田命)もその子孫は鳥取県西部から見つかっている。神武天皇の2番目の皇后(伊須気余理比売)も伯耆町久古出身である。倉吉にいた天武天皇は神武天皇と同じように鳥取県西部から胸形尼子娘と額田王を娶っていた(それぞれ654年に高市皇子を653年に十市皇女を生んだ)。胸形尼子娘の父は胸形徳善であり、天武天皇の父は蘇我善徳であった。
 高市皇子が天皇になれなかったのは母親(胸形尼子娘)が田舎出身の胸形氏であったからと言うが、胸形氏は米子市長砂町出身(古事記の胸形の君)であり、名門中の名門である(以前の「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし)。高市皇子は倭国第31代天皇であった。
 京都の藤原氏は鳥取県中西部を何もない田舎と暗示にかけた。鳥取県中西部を田舎であると京都人は現在でも言い続けている。

2  660年に百済王朝は倭国に亡命した。倭国(鳥取県中部)王と百済王家(滋賀県大津)との間で和解が成立した。その和解案は二つの王家が列島に並立することを認めるものであった。
 天智の臨終に際して皇位を承継するかどうかの話は作り話である。その時の倭国天皇はすでに天武天皇であり(649年即位)、天智は法隆寺に放火した(670年)ので、近江で天武天皇に殺害された(671年)。

3  不比等の父の藤原鎌足と鸕野讃良皇女の父の天智は乙巳の変でテロを行った同志である。親たちの行ったテロの反省の上に立って、不比等と鸕野讃良皇女は今度は静かに政権を奪取することを考えた。その方法が毒殺による暗殺である。鸕野讃良皇女は、不比等と吉野(テロのアジト)で会っていた。次に毒殺するのは誰か、どうおだてるか、どう毒薬を入れるか、などを相談していた。
 不比等は父が殺害されて(669年)から他の二人の子と一緒に天武天皇のもとに来た(11歳)。壬申の乱などと言うが、倭王権が蝦夷(準王一族)に行なってきた平定の一環にすぎない。百済は朝鮮半島に残っていた準王一族(蝦夷)であった。不比等は壬申の乱にも同行し、鸕野讃良皇女とともに伊雑宮や千田寺にも行っていた。千田寺のいわれも知っていた。不比等も「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行した。判断力が鈍った第31代高市天皇、第32代忍壁天皇、第33代穂積天皇を毒殺した。周囲の者は気が付かなかった。
 鳥取県中部(倭国)の影響力は、倭国にいた大王が殺される(734年)まで続いた。長屋王は親王であったからその親の高市皇子は天皇であった。高市皇子は倭国第31代高市天皇であった。長屋王が行っていた左道とは仏教と始祖の天照大御神(徐福)から続いてきた道教の混ざった卜占である。泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で仏教と道教(格義仏教)の修行をした。藤原氏は倭国にいた大王を殺して(734年)から、鳥取県中部(倭国)の粛清を始める。その処刑場が倉吉市の法華寺畑遺跡(741年創建)である。
 

 おまけ
 気品のある米子の女性(航空祭にて)
 鳥取県中部(倭国)の天皇は鳥取県西部(米子)の女性を娶ることがあった。


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