「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた

2019-11-14 06:14:35 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた


1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。

※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。

(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在したかどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国に実在した天皇ではない。


2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭建命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭建命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国王家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が半島に行くために一時留まるところでもあった。
 大伴旅人と山上憶良は長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。


3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。


4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済人の鎌足や天智は蘇我入鹿大王を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市大王、忍壁大王、穂積大王を暗殺した。不比等の暗殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の大王家は長寿の家系だから、四人の大王の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積大王の次の大王は鳥取県中部(倭国)に留まらせた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭国)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭国)から奈良(倭国が造った京)に帰って、東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。教え子の聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や(新羅の疫病(?)から逃げ回っていた)聖武とは別人であり、鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭建命を擁する倭の王軍によって、東は岩手県から西は長崎県さらには半島まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって支配統一されていた。山上憶良は亡命百済人2世だが、鳥取県中部(倭国)に5年いたので親倭派になっていた。百済(日本)王として即位した聖武天皇の侍講もしていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。


5 鳥取県倉吉市の北野神社は山上憶良が仕えた第34代倭国大王(在位715年~734年)の宮であった。
(1)小鴨道祖神遺跡より

 「電波塔あたりでも飛鳥・奈良時代の住居跡が見つかっているので、小鴨道祖神遺跡まで遺跡は連続していたはずである」と現地説明者は言っていた。「硯転用土器も見つかっているので、国庁の役人が住んでいたのではないか」と言っていた。
(2)私見
 この遺跡の中央に北野神社がある。周辺の形状からしてただの神社ではなく大王の宮と思われる。蘇我入鹿大王の宮は由良にあり古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡であった。蘇我入鹿大王の子の天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社であった。北野神社周辺の遺跡は飛鳥・奈良時代であり、天武天皇より新しく菅原道真より古い。在位715年~734年の第34代倭国大王の宮と思われる。
(3)余談
 菅原道真の生まれたところは諸説あり本当のところは定かではない。「菅原は蘇我原」と解することができるので菅原氏は鳥取県中部に居た蘇我氏の子孫と思われる。また母の伴氏は鳥取県に居た大伴家持の子孫である。菅原道真が倉吉市北野出身としてもおかしくない。ただし、北野神社は周辺の形状からして大王の宮と思われる。
 古くから、生田で八幡神社を祀っており、明治期になると饒速日のいた哮峰に八幡神社を遷して八幡町まで造っているので生田に住んでいたのは富海(鳥見邑)で長髄彦に率いられていた出雲族ではないかと思われる。

 



最新の画像もっと見る