「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伯耆国の四王寺山(鳥取県倉吉市)に行ってきました

2018-07-10 11:52:04 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 四王寺山より大谷集落を俯瞰する。土塁の向こうは県道になっているが、県道を通る者は大谷集落があることが判らない。一部崩されて田になっているが、大谷集落を人為的に隠しているとしか考えようがない。土塁の向こうに公開処刑場であった法華寺畑遺跡(741年頃)がある。亡命百済王朝(日本)は729年に倭国親王(日本は臭いものには蓋でしょ)の長屋王を暗殺し、734年に倉吉市の北野神社を皇居にしていた34代倭国王を殺害し倭国を乗っ取った。780年に新羅と国交を断絶している。四皇子峰などを宮崎県に移し終えてから、倉吉市の国庁には生き証人を殺す暗殺集団が来ていた。
 土塁の入り口です。
 土塁を通って初めて四王寺山が見える。登山口はこの先を右に200mほど集落内を行ったところにある。大谷集落を通らないと四王寺山には上がれないようになっている。
 四王寺山の一番高い所です。ここから高見の見物をしていたのは誰でしょう。
 高見神社跡より200mほど先にある護国山四王寺(九世紀に四天王を祀る)です。その裏に展望台がある。867年伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の5か国に対し、亡命百済王朝(日本)から四天王像各1鋪が下された。新羅からの船を監視し渡航させないためである。
 灘手地区の手の指(尾根)が重なっているように見え神武天皇はこの地を「秋津」と名付けた。上にある細長いのが「島」(秋津島)である。
 丘陵地は蜘ヶ家山(葛城山)である。その下を通っているのは黄泉比良坂の延長線に造られた道路。それまでは、上神から蜘ヶ家山を通り原集落に到着していた。黄泉国(倉吉市中心市街地)から津(葦原中津国)へいたる道路である。左側が葦原中津国である。
 展望台より日本海を望む。この日は中国のスモッグで先がかすんでいた。白くて大きな建物は、米を大量に貯蔵できるカントリーエレベーターです。その左が大島(秋津島)であり、葦原中津国の中心である。伊邪那岐・伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。神武天皇たちの四兄弟は葦原中津国を見下ろせる四王寺山にいた。
 灘手地区の手の指(尾根)が重なっているように見え神武天皇はこの地を秋津と名付けた。
 北側から見た四王寺山。手前が北面集落。この集落を通らなければ四王寺山に上がれないようになっている。
 この四王寺山は北栄町由良宿の高江神社で生まれた山幸彦(彦火火出見)の本拠地であった。山幸彦(彦火火出見)は海幸彦(長髄彦)と折り合いが悪く3年間辰韓に逃げていたが、父の邇邇芸が「この地はいと良き地なり」と言っていたので取り返しに帰ってきた。1日で北面に船を着けた。土塁の上から辰韓で作られた国内最長の弥生時代中期の鉄鉾が発掘された(中尾遺跡)。海幸彦(長髄彦)は饒速日の義理の兄として饒速日が降臨した倉吉市の哮峰(清熊稲荷神社の峰)の近くの倉吉市富海にいた。土塁は倉吉市富海を意識して造られている。鉄鉾は薄く作られており、敵もいたので祭祀道具ではなく実用品であった。
 行かれた人はここに神武天皇4兄弟がいたかどうか聞かないほうがいい。絶対にそうだとは言わない。これは、天武天皇がいた賀茂神社や孝霊天皇一族がいた倭文神社でも同じである。聞けば必ず否定する。聞く耳ももたない。藤原氏は鳥取県中部に重点をおいて、否定する者を配置している。


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