2 松江の田和山遺跡の5本柱の建物は出雲大社のモデルではない。
遺跡自体は高いところにある。
5本柱遺構は柱の太さ20~30cm。柱と柱の間は2mありません。
古事記には、国譲りに際し大国主命が「この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は隠れていよう」と言ったので、天孫族は多藝志之小濱に御殿を建てた、と書いている。
この5本柱の建物が出雲大社のモデルである、と言われる方があったが、サイズを知らなかったのだろう。
3 私見
江戸時代まで長瀬高浜の西には石山があり、舵の柄のようになっており、長瀬高浜と石山を合わせて舵(多藝志)の形をしていた。多藝志之小濱は長瀬高浜であった。
以前詳しく述べてきたが、鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡で見つかった高床式建物跡(SB40)は柱の太さが2.5mもあるような4本柱の建物であり、梯子跡もある。この建物が、大国主のために造られた出雲大社のモデルであり、稲吉角田遺跡の絵画のモデルであった。
稲吉角田遺跡出土の線刻土器の時代は紀元前1世紀である。神武天皇は妻木晩田を紀元前100年頃、開いた。稲吉角田遺跡は妻木晩田遺跡の近くにある。この壺は土器を多く作った神武天皇によって作られたと思われる。
長瀬高浜遺跡のSB40の時代を紀元前160年頃(弥生前期)としていないのは、遺構外で弥生時代前期の土器片が多数かたまって見つかっているにも関わらず、時代判定にまったく考慮されていないからである。
笠沙之御前は北条砂丘であり、その中央の茶臼山(いなさ山)に大国主はいたのであるから、同じ笠沙之御前の東端に父の素戔嗚に言われていた高い建物を建ててもらったとしても、おかしくはない。
右側に建物跡もあり、古事記の舞台である。素戔嗚の子の大国主(天孫族)は事代主と百八十神(出雲族)に国譲りをさせ、天孫族からよくやったと褒められ、父の素戔嗚が言っていた高い建物を建ててもらい、梯子下の食堂で鱸(すぐ横の東郷池でとれた)などの料理をもてなされた。
稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜遺跡の4本柱の高い建物(SB40)であった。