「建物は古代の出雲大社の原型」という説が有力である。
船の人物は中国の奥地、雲南のテン族や苗族の当時の頭飾りと似ている。
以下はある方の説です。
私には稲吉角田遺跡の土器絵画が、弥生の祭祀を単に描いたのではなく、どこかの近在の遺跡の具体的な祭祀を描いたものに思えてならなかったのである。稲吉角田遺跡出土の弥生式土器に描かれた線刻絵画は、松江市の田和山遺跡(弥生時代前期末~中期後半)の祭祀をもとに描かれた可能性がある。
弥生中期後半の田和山遺跡を見ると、北側に集落があり、西側斜面に祭祀施設と見られる二間×六間の大形掘立建物跡がある。
田和山の人々は、後に淀江の妻木晩田に進出した可能性も考えられる。
私見
「私には稲吉角田遺跡の土器絵画が、弥生の祭祀を単に描いたのではなく、どこかの近在の遺跡の具体的な祭祀を描いたものに思えてならなかったのである。」「田和山の人々は、後に淀江の妻木晩田に進出した可能性も考えられる。」この部分は私も同感です。
「田和山の人々」は準王一族(出雲族)であり、出雲族(殷王朝末裔)の宗教を替えるために、神武天皇が妻木晩田に来させた。
この壺絵は田和山の大形掘立建物を描いたものではなく、祭祀場でもあった長瀬高浜遺跡の様子を描いたものである。土器が制作された時代は紀元前1世紀(民俗学ひろいあげ辞典より)である。奈良の唐古・鍵遺跡の多くの線刻土器は紀元1世紀とする。紀元前1世紀と紀元1世紀とは明らかに違う。稲吉角田遺跡の線刻土器は唐古・鍵遺跡の線刻土器よりも100年ほど古い。稲吉角田遺跡の線刻土器は天孫族が造ったものであり、唐古・鍵遺跡の線刻土器は準王一族が造ったものである。
紀元前160年頃に国譲りがあり、大国主は天孫族の仲間として、天孫族からよくやったご褒美に柱が太くて屋根の高い建物を造ってもらった。準王一族を平定するために神武天皇の4兄弟が日向(倉吉市の四王子山)を出発したのは紀元前70年頃である。この壺絵は紀元前70年頃までに描かれたものである。大国主が建ててもらった柱が太くて屋根の高い建物はまだ100年もたっていないので存在していた。
二男は朝鮮半島(母の出身地)へ行き新羅国を建国し、鉄製の武器を作り倭国(鳥取県中部)に送った。三男は常世国(中国南部)へ援軍を求めに行っている。淀江町は天孫族が九州へ行くルート上にあった。
神武天皇は盛んに土器を作っていた。妻木晩田は神武天皇が開いたのであり、紀元前1世紀に始まっているから、稲吉角田遺跡の壺絵も神武天皇が描いたと思われる。