「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

長瀬高浜遺跡の弥生前期の土器について

2018-07-07 11:12:20 | 出雲大社のモデル

 調査報告書5に、「昭和53年度56年度調査地区(f1地区)内、特に19D・20D・19E地区内より多量の弥生土器が出土した。遺構として認識したものは前述したが、ほとんどの弥生土器は遺構に伴わず出土している。古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたためであろう。壺(PO1~38)甕(PO39~60)その他の器種(PO61~67)である(同一個体であるものは少なくバラバラで出土している)。以上の弥生土器は、弥生時代前期の遺物と考えられる。」と書かれている。
 この部分はこの遺跡全体にとって非常に大事な部分であるにもかかわらず、全巻合わせると3000ページを超えるような膨大な報告書の中で、これだけで済ませている。
 遺構の外にかたまって出土した原因は「古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたため」であろうか。たまたま一部が遺跡内でかたまって見つかっただけのことで、多くは洪水で遺跡外に流されているはずである。

 報告者は「長瀬高浜遺跡には弥生時代の生活痕がない」とする。弥生前期の土器が遺構の上にあったが洪水で流されたかもしれない可能性をまったく考慮していない。その遺構から出土した遺物から時代を判断している。個別の遺構の時代判定では、長瀬高浜遺跡以外の遺跡でしてきたと同じ時代判定をしている。例えば、「SI100は遺物(土師器など)から判断して古墳時代前期である。」というような具合である。切り合いも判断の基準にするが、かなりの部分、遺物に比重を置いている。
 竪穴式住居跡のほとんどは古墳時代であるとしているのは、住居跡から土師器だけが見つかり、弥生土器が見つからないからである。出土した土師器を種類別に分ければ30~40棟分ほどでしょうか。竪穴住居跡167棟・掘立柱建物41棟を賄うには少なすぎる。大部分は弥生時代の建物跡だとは考えられないだろうか。SB40の建物跡にも弥生土器があったはずである。


1  古事記(訳)
 出雲の国の多藝志の小濱に御殿を建てて、水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫(料理長)として、料理を献げるとき、言壽ぎして、櫛八玉神は鵜に姿を変えて海に入り、海底の土をくわえてきて多くの平瓮(平たい土器)を造る。
 海藻の茎を刈って火燧の臼とし、海蓴(こも)の茎を火燧の杵として、火を起こして言うには、この私が起こした火は、高天の原の神産巣日命の新しい宮殿の御厨に届いた煤が、どっさり溜まって長く垂れるまで炊きあげ、地の下では底の底まで焼き固める。
 白い長い延縄を引き回して漁をする海人が大きな鱸を非常にたくさん捕らえ、引き寄せあげると、竹の簀もたわわに、献げ物の魚の料理を奉る、と言った。
 私見
 これらのことはSB40の下の建物(SI121・SI124・SI125)で行われたことであり、そこで煮炊きもおこなわれたのであるから、弥生土器はたくさんあったはずである。
 SB40は梯子跡もあり四本柱でもある高層高床建物であり稲吉角田遺跡の線刻土器(紀元前1世紀)の建物である可能性が非常に高い。だから、古墳時代前期であるわけがない。祝宴のできる建物や厨房も完備しており、まさに古事記に書いてある舞台である。
 大型の土錘もたくさん出土している。白い長い延縄を引き回して漁をするのに必要だったはずである。


2  報告者には先入観がありはしないか。「SB40は複雑な施設を持つ巨大な高床建物であるから、簡素なSB30より400年後(弥生時代前期~古墳時代前期)に建てられたとしてもおかしくない。弥生時代前期にこのような複雑な施設を持つ巨大な高床建物が建てられるわけがない。」このような先入観があると思われる。しかも弥生土器も見つからない。だから古墳時代前期だとした。

3  また報告者は古墳時代前期だとした理由の一つに「SB40の周辺から銅鏃・鉄鏃・素文鏡が出土している。これらはSB40に関係する遺物とも考えられる」としている。
 銅鏃は青銅器文化の一族(出雲神族=準王一族)が長瀬高浜を襲った時に放ったものである。鉄鏃はそれに応戦した倭王権が放ったものと思われる。近くの宮内遺跡で鉄鏃12個が綺麗に副葬されていた。鳥取県中部には弥生時代後期に鉄鏃を使う一族がいた。長瀬高浜で銅鏃と鉄鏃が見つかったのも青谷上寺地遺跡と同じく、倭国乱の痕跡である。倭国とは、当時列島に120くらいあった小国の名であり鳥取県中部の国名であった。倭国乱の痕跡は現在のところ、鳥取県中部(青谷上寺地遺跡)でしか見つかっていない。

 小型素文鏡は遺跡全体で12個出土している。その中で、15ISP01より出土したM1~M3は弥生時代前期であるとしている。しかし、ほかの8個は古墳時代前期(約400年後)としている。
 写真や図で見る限り、私には違いが判らない。古墳時代に入れば、もっと大きくて、模様の入ったものが出てくるのではないか。これも土師器に引っ張られた結果だと思われる。



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