熊野大社と茶臼山(倭国の中心)とは直線距離で70km。茶臼山から妻木晩田とは直線距離で34km。妻木晩田は準王一族(出雲神族)の本拠地(熊野大社)と倭国(鳥取県中部)の中心(茶臼山)との中間にある。
稲吉角田遺跡の絵画土器は数十年前に松江で造って持ってきたとは思われない。妻木晩田遺跡は松江の準王一族の反乱を防ぐために天孫族(はじまりは初代)が住まわせたと思われる。
稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前70年頃に長瀬高浜で作った線刻土器を神武天皇たちが東征に行く途中の淀江に持ってきて土器に線刻するように出雲神族に示したと思われる。線刻土器の発祥は倭国(鳥取県中部)の素戔嗚や神武天皇たちであった。
2 稲吉角田遺跡出土の線刻土器(紀元前1世紀)
3 奈良県の線刻土器(紀元1世紀)
(これは撮影禁止ではなかったので引用させてもらいます)
楼観(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
その他に
高床建物に登る人物(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
鳥装の戦士(弥生時代中期1世紀 田原本町清水風遺跡)
船と高床建物(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の巫女(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の人物(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船を漕ぐ人(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
船にのる司祭(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
などがあるが ほとんど紀元1世紀の線刻土器である。
4 弥生時代の絵画土器はこれまで全国で600例ほどある。
絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が唐古・鍵遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。
弥生時代中期に銅鐸を鋳造した工房があったことで知られる大阪府茨木市の東奈良遺跡で、銅鐸の絵を線刻で描いた紀元前1世紀ごろの絵画土器が見つかった。
5 私見
線刻土器祭祀を始めたのは倭国の神武天皇たちであった。神武天皇たちヤマト王権は準王一族の銅鐸祭祀をやめさせる代わりに土器に線刻をさせ、絵画土器を祀らせた。紀元前1世紀の線刻土器は全国的に出土例は少ない。 稲吉角田遺跡の線刻土器は神武天皇たちの作った初期の線刻土器であった(縄文土器は除く)。
続きは別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
※参考
吉田大洋氏は『竜神よ、我に来たれ!』において「スサノオは出雲を制圧すると竜蛇信仰を捨てることを迫った。出雲熊野大社の牡牛神ハルが強調されている線刻石はスサノオによる出雲神族の竜蛇信仰が弾圧されたときのものではないか」とされる。