チベット仏教の僧侶も学校で子供達に説教をしますが、それは主に新米僧侶の仕事で、ベテランは結婚やお祭り、出生や葬式といった儀式を主な仕事とするので Priest の方がしっくり来ます。
プリーチャーについてもう少し言及しますと、教えを説く仕事はやはり聖職者が担うべきかと思い、ドン(中国共産党)の指針に完全に従ったり、ムダなペーパーワークに忙殺される教師では、聖職者の名に値しないと思えます。
ムダなペーパーと云うのは主にテスト用紙のコトで、そんな森林資源のムダ使いは子供達に悪影響しか与えないと思います。(テスト用紙を大事にとってる人って居ますか?)
仮にも聖職者を名乗るならば、教師は世界を代表して子供達に教えを説くべきで、ちっぽけな国などという縛りは超えて然るべきでしょう。
話をプリ-ストに戻しますと、彼等はチベットで司法と行政も担っていました。
裁判所や国会がお寺の一部門に過ぎない社会というのは、実に平和的で好ましいと私は思います。
また、人を裁いたり国の舵取りをしたりする仕事は聖職者にこそ相応しく、お金に翻弄される俗人に任せるのはどうかとも思います。
チベットとは対照的に、司法と行政がドンに握られた社会は殺伐としており、それはドンが他の権威を打ち倒して成立した革命政権だからです。
法輪功やキリスト教会、チベット仏教やイスラム教徒はずっと迫害され続けており、香港や台湾の民主主義もその攻撃対象にされています。
もちろん汚職も甚だしく、それが一種の文化にすらなっています。(汚職一掃キャンペーンは権益の一極集中をもたらした)
民主主義 vs 独裁政権の構図はウクライナ侵攻でより鮮明となり、日本の教師にもこれをしっかり子供達に伝える義務が生じています。
しかし、テストの穴埋め問題でしか歴史を勉強して来なかった新米教師に、この大役が勤まるのかは疑問です…
ドンの教育で一番問題なのは、独善的な評価によって歴史を修正している点です。
これは日本の一部の歴史教科書にも見られるかも知れませんが、日本には言論の多様性が認められており、ドンの教科書が唯一絶対である中国とはワケが違います。
私的には、歴史を編集する仕事こそが最も聖職者の名に値する気がし、そこでは下らない汚職政治や戦争の歴史ではなく、民がいかに主権を持って世界をリードして来たかをフィーチャーして欲しく思います。