なので「幸福について」という題で書くのは非常に難しく、「精神的幸福度」と限定させて貰いました。
前回、「人は精神的にはみんな平等に成れる」と書いて、それが芸術や宗教の役割だとしましたので、今回は哲学や科学で「人を平等にする」道について語りたいと思います。
哲学で「幸福論」と言えばフランスのアランとドイツのヒルティが有名ですが、私はカチカチのドイツ哲学よりも柔らかいフランス哲学の方が好きです。
これは共に19世紀の本なので、現代人の「幸福」にどれだけ役立つかは疑問で、やはり20世紀から一気に発展した科学こそが「幸福への道」の本流と言えるでしょう。
科学は宇宙の成り立ちから生命の起源まで、ほぼ全ての「宗教的疑問」に答えをもたらしました。
そうした「答え」に議論を差し込む宗派もまだ僅かに存在しますが(「エホバの証人」など)、そんな時代遅れの信仰は「精神的幸福度の向上」には結び付かないでしょう。
仏教でこうした「異端な宗派」としては「真如苑」が挙げられ、私はここにも「エホバ」と共に一年程通いました。
それは福島に復興支援の仕事(EM復興支援プロジェクト)で五年間住んだ時で、人との繋がりを持つ為に宗教を片っ端から利用しました。
「真如苑」は霊能者の育成をシステマチックに行っており、その着実に段階分けされた行程はまるで「ヒルティ幸福論」の様でした。
そうした修行の行程には当然お金がかかり、信者は相当な額を払ってでも「精神的幸福度」を高めようとされておりました。
しかしそんな「霊能」などで人の心が解るようになっても、「精神的幸福度」はさして向上しない様に観え、そうした「向上心を持つサークル」に参加するコト自体が「精神的幸福度」を高めている様に観られました。
福島ではよく山登りもし、自然の中で木漏れ日を浴びて読書するのが好きでした。
こうした自然派な「アラン幸福論」が私には合っており、この本は若き日の善き「旅の伴」と成りました。
たとえ世界がどんなに「不平等」であろうとも、「精神的幸福度」はみんな平等に高められると信じられるのは、宗教と科学を統合したアランの様な哲学者のお陰と思えます。