私のキリスト教遍歴はそうとうイイカゲンで、1年間高校の交換留学でアメリカ南部に行った時は、教会の牧師と議論してホストファミリーから嫌われ放り出されて、その影響からか大学で宗教哲学を専攻してもキリスト教だけは白眼視しておりました。
キリスト教を白眼視したのは、聖書が余りに「非文学的」であるにも関わらず、やたらと重んじらているからです。
その「子供レベル」の文章はハッキリ言って読むに耐えず、それでも「大艱難時代」を物語の背景にするとした以上、この「キリストの予言」についてもう少し掘り下げるべきでしょう。
このコラムでは「終わりの時」に向けて時代が暗転して行く過程が述べられていますが、それは始まりに過ぎず、再臨したキリストが世界を救ってからまだ1000年は「終わりの時」まで間があるとしています。
こうした悠長さが、クリスチャンに楽天性を持たしているような気がし、「自分が救世主に成らなくても誰かがいつかやってくれるさ」と言った投げやりな姿勢も観られて、それがキリスト教を白眼視する主な原因になっています。
私が聖書の文章にここまでクレームを付けるのは、苟(いやしく)も「神の書」を自称するならば最高の文章で書かれて然るべしという、儒教的な「学聖の教え」を信奉しているからです。
そうした「最高の文章」を目指す仲間はたくさん居り、直近では世界的ベストセラー作家のユン·チアン(戒張)を挙げましたが、ネット空間でもそうした文豪と出会えます。
この著者は何十冊も個性的な本を書かれているプロで、彼の書評集はとても勉強になります。
このコラムの内容は将来キリストが統治する「千年王国」についてですが、それについての本を実際に読まなくても、書評だけで理解できた気になれます。
また、正剛さんの書評は本の世界の広大さを教えてくれ、「大人の文章」の魅力も教えてくれます。
正直に言うとぼくは文学こそが最高の芸術だと思っており、その芸術性が感じられない宗教には魅力を感じません。
聖書でぼくが唯一文学性を感じたのは「ヨブ記」で、ヨブをモデルにした登場人物も前作「Say」で描きました。
「ヨブ記」は明らかに鬱状態の著者によって書かれていますが、その延々と綴られている苦闘からは人間のサガを教われます。
しかし、キリスト教はだいぶ「鬱」に傾いた宗教と言え、その点で「躁」的な仏教(太鼓を打って大声で祈る)とは対照的に思えます。
ぼくは「鬱」よりは「躁」の方が好きなので、自らを卑下して「子供レベル」に甘んじる様な宗教は好きになれません。
しかし、キリスト教の中にも日本山の様な異端宗派は有り、それが「ネイティブのキリスト」を崇めるモルモン教です。
ここは「エホバの証人」や「統一教会」(共に1年程通った)などよりもずっと異端で、聖書すら認めずに独自のモルモン書を経典としています。
しかしキリスト教徒でない者からすれば、そんな違いは取るに足らないモノで、モルモン教徒は独自の道を真っ直ぐに歩んでいる様に観えます。
それはキリスト教とネイティブの教えの融合で、人類の進歩に伴う必然的な進化と捉えられます。
こうした宗教の進化をブッタ(仏)は予言しており、いつか全ての宗教は「1つの祈り」に集約されるとしています。
今回は長くなったので、この予言については次回に語らせて貰います。