審判を下すのは自分
これまでリクパ(心の本質)について色んな角度から述べて来ましたが、それはバルドゥ(最期)の審判を下して自分が行く道を決めるのも、やはりこの心の本質だとされるからです。 このリクパ...
「罪」と「許し」について
前回すこし、西洋の「死者の書 (霊界探訪)」を紹介して、「罪」も「許し」も観念的で迫力に欠けるなんて書きましたが、これはちょっと軽率すぎたかなと思うので補足します。 キリスト教で...
政(まつりごと)と祭の終わり
毛沢東の死を描く上ではバルドゥ(審判)だけでなく、その現世の政への影響も描く必要があるか...
祈りを合わせる行
前回、山の洞窟に隠れてバルドゥ最期の祭を行い、それは大勢の人がマントラを合わせて祈る形...
南無とオームについて
前回に引き続いて、洞窟での密葬とその儀式について述べます。 前回はこの儀式の核心である七文字のマントラの内、妙法蓮華経の五文字を解説してそのユニバーサル プレイヤー(世界共通の祈...
太鼓のリズムと歌の祈り
色々と調べてみましたが、どうやらバルドゥの儀式(葬儀)にはカッチリ決まった形式はなく、故人の希望にそった形で構わない様です。 希聖は師である行善に一切を託しているので、日本山のス...
魔王ヅェドン(毛沢東)の功罪
マオの功罪は一応ザックリと総括されており、功7の罪3とされています。 この7:3という数字は共産主義革命の功罪にも当てはまるのですが、果たしてこんな数字だけの総括に意義が有るのか...
魔王の右腕の功罪
マオの右腕と呼ばれたシーシェンの罪行については、「襲」「醜」「収」の章で詳しく述べまし...
「Redemption Song(許しの歌)」とアフリカ
なかなか「罪」を「許し」に持ってくいいアイデアが浮かばないので、以前ちょっと紹介したボ...
「Detours(抜け道)」とアメリカ
前回に引き続き、「罪と許しについて」で紹介したアルバムから入らせて貰い、今回はアメリカ...