これらは重慶大学での自己批判(総括)とバルドゥ(最期の審判)でも繰り返し述べて来ており、シーシェンは共産革命の罪を体現した人物と言えます。
「襲」では毒ガステロを、「醜」では長春包囲戦を指揮し、「収」では大躍進政策を強行して安徽と山東の農村を崩壊させ、600万人もの餓死者を生み出しました。
しかし彼が罪を問われたのは、その破滅的な農村の収容所化を解除した事であり、それは確実に犠牲者を減らして後には皆これに続くのですが、最初に「収」を解除したシーシェンだけは反逆者とされました。
その後、農村の犠牲の上に成り立って来た都市でも争乱(文革)が起こり、それは直接的には大躍進政策の大失敗の責任を押し付け合う首脳陣の政争によるモノでしたが、農村の怨みが都市に仇をなしたとも観じられます。
シーシェンはその仇を鎮める為に自ら犠牲壇に立ち、混乱と争乱の渦中に在った人民のマリクパ(無明)を晴らします。
血に狂った紅衛兵達を鎮める為に、シーシェンは子供達に戦争の真の過酷さを伝え、紅軍が長征を生き残れたのは農民を無理やりゲリラにして戦わせたからであり、自分がそれを指揮した経験を伝えます。
長江の大渡河での伝説的な活躍については敢えて語らず、彼が激流を泳いで渡り徒手空拳で対岸を制したお陰で紅軍は落ち延びれたのですが、その後の悲惨な歴史を鑑みるとそれは功ではなく罪だったとシーシェンには思われます。
しかしそんな彼にも確実に功と言える活躍を果たした時期があり、 それは中国共産党の支配に立ち向かった優樹国(東チベット)を支援した功績です。
人民解放軍の参謀長だったシーシェンのお陰で優樹国は五年間の独立を勝ち得て、そこは中国内陸部での難民のオアシスと成ります。(この辺は物語です)
優樹国は原爆投下によって遂には破られてしまい、生き残った男達は収容所に入れられるか断種され、この地方の女性は無理やり中国人と結婚させられて優樹の血は途絶えてしまいます。(断種政策は実話です)
それでも最後に残された優樹の老人達は、自分たちの伝統と誇りを懸けてシーシェンのバルドゥ祭(密葬)を支援します。
この老人達とシーシェンは同年代(70代)で共に仏道修行もしており、彼は山奥の隠れ里で野生児として育ったので中国人よりもチベット人とより良く馬が合いました。
最期の審判でこの老人達の声援を受けられた事は、行善という類い希な導師に恵まれた事と相成って、シーシェンに罪を功に転換するチャンスを与えます。