このリクパが、濁り奢って畏れに捕らわれマリクパの状態になってしまうと、地獄や餓鬼、修羅や畜生の道へ転生してしまうとされ、そうならない為に生きてる内から準備しておこう、というのがチベット人の生活スタイルです。
準備の仕方としては、日頃からリクパの状態を保とうと瞑想などの努力を重ね、マリクパの状態からリクパへと心を導いてくれるマントラ(真言)をひたすら唱えるのがポピュラーな方法です。
チベットに行かれた方は、チベット人がひたすら同じ言葉(オムマニペメフム)を繰り返し唱えてるのを不思議に思われたはずです。
しかしそれくらい唱え続けていても、夢の中でその真言を思い出せる事は非常に稀で、夢ではマリクパ(無明)に流されるままなのが普通です。
バルドゥの夢では普通の夢よりも光が強く、意識も鮮明としているので思い出すチャンスは充分にあるとされています。
この真言をしっかり心に留める事が出来れば、悪道に堕ちる事は無く人間や天人の道に進め、さらには仏の道までが開けて来るとチベット人は信じてオムマニペメフム(南無妙法蓮華経と同義)を唱え続けております。
ここで少し、日本での南無妙法蓮華経の唱えられ方に脱線しますが、これは圧倒的に創価学会がそのシェアを誇っております。
しかしそこに「死の教え」は一切含まれておらず(3年程出入りしたので解ります)、純粋に現世利益の為にこのマントラを唱え続けておりました。
私はこれに批判を加えるつもりは無く、現世が全てであるとする教えもそんなに悪くはないと思います。
現代社会でシェアを拡大するには、科学的な根拠の持てない死後の世界について語る事は敬遠され、創価学会は政党まで抱えているので余計に中立性をアピールする必要があるのは理解できます。
しかし、どうしても人は死ぬとき何かにすがりたくなるモノで、宗教とは元々そのガイド役として発展して来たことは否めず、そうした教えをシャットアウトしてしまうのは如何なモノかと思います。
南無妙法蓮華経の心はこれまで何度か解説を試みて来ましたが、マリクパを晴らす力をこのマントラに持たせる為には、解説を理解するだけではなく自分でもそれに意味付けをする必要があると思います。
そうした取り組みをいつか「120の妙なる法」として発表したいと考えており、この120の数は千年前に天台大師が「法華玄義」で挙げたのに習うモノで、その現代版を目指しております。
話しを「最期の審判」に戻しますと、これは当然西洋でも大きなテーマと成っていまして、向こうで権威ある「死者の書」とされる「霊界探訪」にも、その審判を下すのは自分であると書かれているので引用させて貰います。
--(バルドゥでは) あなたの本当の人生を見せつけられるのです。
そしてそれを裁くのはあなた自身なのです...あなたがあなた自身を裁くのです。
これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。 でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか? あなたは自分の罪を許せますか? これが審判です --
西洋の「死者の書」では、キリスト教の影響から「罪」と「許し」を強調しているのが伺えます。
しかし東洋の「死者の書」と比べて観ると、「罪」も「許し」も観念に過ぎず、いささか具体性と迫力を欠いているので、やはり物語としては派手なチベット仏教の「死者の書」を軸に描こうかと思います。
かなり前置きが長くなってしまいましたが、次回から物語に復帰して希聖と沢東の「最期の審判」を描きます。