2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデル 同志社大学創立者
新島襄さんと同志社女子大学を開設した妻八重さんの旧邸を 訪ねました
襄さんは明治8年11月 堂上華族高松保実(やすざね)公の邸宅であった半分を間借りして
生徒8名で同志社英学校を開校され 翌年に学校は旧薩摩藩邸に移り
襄さんは高松邸を購入して 自宅を建築(新島旧邸)されたそうです
寺町通りに面した 木戸(入口)
住所 京都市上京区寺町通り丸太町上ル松陰町18
新島旧邸の外観 玄関
同志社英学校の牧師・医者W・テイラーさんの助言で 木造2階建ての和風建築に洋風の手法を取りいれ
内部はフローリング 椅子やテーブルの居間 応接間 当時としては珍しいセントラルヒーティングを置き
土間のないダイニングキッチン 板張りの洋式トイレ 欄間や障子 襖 箱階段などの和風の手法も取り入れています
現在は新島旧邸とよばれ 家具 調度類を含め 昭和60年6月に京都市の有形文化財に指定されています
付属屋 通りに面した木戸をくぐると 左手にあります
襄さんが両親の隠居所として 上州安中藩の江戸屋敷にあった住居に準じて建てられたそうです
明治9年 結婚間もないころ(スキャン画像)
和服に襟元はマフラー?足元は靴 帽子を持っています
八重さんは 和洋折衷のファッションが気に入って人目を引いたそうです
明治21年京都の写真館で撮影のポートレート(スキャン画像)
簡単に 新島 八重さんの生涯
1845年 会津藩士山本家の三女として生まれ6歳のころっから 父親から「ならぬものはならぬ」会津藩の心得を教わる
13歳のころは 60kgの米俵を4回も持ち上げた 兄覚馬から射撃・砲術を取得する 男勝りの少女時代
1865年 但馬出石出身の藩校日新館の教授の 川崎尚之助と結婚
1868年 22歳のときに戊辰戦争 弟の形見の男装で断髪し戦い 多くの敵を正確に狙撃するも敗戦
敗戦後、捕虜となった夫と生き別れ 1871年離婚
1871年 兄覚馬(京都府の顧問)のもとへ 母 覚馬の娘と3人で移住
1872年 兄の勧めで日本最初の公立女学校 新英学校及女紅場の権舎長・教道試補となる
1875年 兄の元に出入りしていた準宣教師新島襄と10月婚約する
1876年 1月3日日本人として初のキリスト教の結婚式を行う 襄32歳八重30歳
レディファーストの襄と男勝りの八重は似合いの夫婦といわれた
1876年 11月同志社女子大学を開設
1878年 新居を建築(現在の新島旧邸)
1890年 1月23日襄が大磯の療養先で心臓病のため 急逝 14年間の夫婦生活
襄が亡くなった後 裏千家13代の弟子になり 茶人として活躍
襄が亡くなった年 日本赤十字社の正社員になり 社会奉仕に情熱を注ぐ
1894年 日清戦争 日露戦争で篤志看護婦として活躍
1896年 篤志看護婦として活躍が認められ 民間女性として初めて勲七等宝冠章を受ける
1896年 襄の母とみ 八重の母佐久が永眠
1906年 勲六等宝冠章を受ける
1907年 11月新島旧邸を同志社に寄付する
1928年 多くの功績により昭和天皇即位大礼で銀杯を下賜される
1931年 故郷会津若松大龍寺に 山本家の墓を建てる
1932年 6月14日急性胆嚢炎で永眠 86歳
同志社学校葬として執り行われ4,000人の参列者があった
江戸・明治・大正・昭和と移り変わった時代を
キリスト教精神と 会津武士魂で「ならぬものはならぬ」
強情で前向きに力強く生きた 生涯でした
新島旧邸の各部屋のパネルや ご夫婦の足跡が展示されているギャラリー
ギャラりーで
お泊りは 奈良 猿沢池(さるさわのいけ)の近く 大佛館
各グループで研修の感想を発表して 乾杯!
夕食後は新日本三大夜景の一つといわれる若草山から京都・奈良の夜景を
楽しむ予定でしたが雨のため中止となりました
2日目は世界遺産奈良平城京 と 国宝東大寺の巨大仏像を見学でしたが
14年8月に家族旅行で1度投稿していますので今回は省略します
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存在感抜群 ど派手な車で 高知をアピールしの旅でもありました
おしまい