今、西日本の各地は、大雨の被害で軒並み惨憺たる状況におかれている。
被害の状況を伝えるテレビの画面を眺めながら、私は、人間というものが
自然のなかではきわめて弱い存在であることを、今さらのように思い知ら
されている。
大雨だけではない。ひとたび台風や、火山の噴火や、大地震があれば、人
間などひとたまりもない。大きな自然災害は忘れたころにやってきて、そ
のことを嫌になるほど我々に思い知らせる。
私の中で、2つの私が交錯する。一つは、科学技術への信頼を失おうとし
ている私、もう一つは、科学技術の発達になおも希望を見出そうとしてい
る私である。
たしかに、人類はその知力を駆使することによって科学技術を発達させて
きた。科学技術の歴史は、自然の猛威を克服し、自然の荒ぶる力を制御す
る意図のもとに発達してきたと言えるだろう。治水や灌漑の技術は、自然
の猛威から身を守るための、堅固なバリアを築こうとする自然対抗の技術
だった。
火力をエネルギー源として使用する技の発見によって、人類はバリアの構
築を加速度的に進化させ、地球というバリアに囲まれた人工の空間の中
で、快適な生活を謳歌するに至った。近代文明の歴史を一言でいえば、そ
ういうことになる。
けれども私は、7年前のあのフクシマ原発事故を忘れることができない。
まだ事故の後遺症から立ち直れないでいる東日本の人々の苦境を思うと
き、私には、「人類は知力によって自然を支配した」という哲学者・ベー
コン張りの言葉が、なんとも虚しく聞こえる。
歴史を俯瞰すれば、人類はエネルギー源を火力から電力に、さらには原子
力に求めるに至ったと言えるが、この原子力こそ、我々の知力ではコント
ロールできない恐るべき魔物であり、我々に大きな恵みと同時に、厄災を
もたらす厄介な代物であることを、我々は思い知らされたばかりなのだ。
にもかかわらず、早々に国内の原発施設の再稼働を決めた我が国は、国民
総ぐるみで健忘症か認知症に罹ってしまったのだろう。この政府の決定に
反対する国民もいたことを思えば、「国民総ぐるみで」というのはちょっ
と言い過ぎだが、この反対の声も、結局のところ原発再稼働を阻止する力
にはならなかった。
ついつい健忘症に陥りがちな我々。ーーそんな我々への自然からの警告
が、このたびの西日本の大雨だったのではないか。被災者の方々にはいさ
さか不謹慎に聞こえるかも知れないが、私はこのたびの記録的大水害を、
そういう自然の警告の声として捉えたいのである。
被害の状況を伝えるテレビの画面を眺めながら、私は、人間というものが
自然のなかではきわめて弱い存在であることを、今さらのように思い知ら
されている。
大雨だけではない。ひとたび台風や、火山の噴火や、大地震があれば、人
間などひとたまりもない。大きな自然災害は忘れたころにやってきて、そ
のことを嫌になるほど我々に思い知らせる。
私の中で、2つの私が交錯する。一つは、科学技術への信頼を失おうとし
ている私、もう一つは、科学技術の発達になおも希望を見出そうとしてい
る私である。
たしかに、人類はその知力を駆使することによって科学技術を発達させて
きた。科学技術の歴史は、自然の猛威を克服し、自然の荒ぶる力を制御す
る意図のもとに発達してきたと言えるだろう。治水や灌漑の技術は、自然
の猛威から身を守るための、堅固なバリアを築こうとする自然対抗の技術
だった。
火力をエネルギー源として使用する技の発見によって、人類はバリアの構
築を加速度的に進化させ、地球というバリアに囲まれた人工の空間の中
で、快適な生活を謳歌するに至った。近代文明の歴史を一言でいえば、そ
ういうことになる。
けれども私は、7年前のあのフクシマ原発事故を忘れることができない。
まだ事故の後遺症から立ち直れないでいる東日本の人々の苦境を思うと
き、私には、「人類は知力によって自然を支配した」という哲学者・ベー
コン張りの言葉が、なんとも虚しく聞こえる。
歴史を俯瞰すれば、人類はエネルギー源を火力から電力に、さらには原子
力に求めるに至ったと言えるが、この原子力こそ、我々の知力ではコント
ロールできない恐るべき魔物であり、我々に大きな恵みと同時に、厄災を
もたらす厄介な代物であることを、我々は思い知らされたばかりなのだ。
にもかかわらず、早々に国内の原発施設の再稼働を決めた我が国は、国民
総ぐるみで健忘症か認知症に罹ってしまったのだろう。この政府の決定に
反対する国民もいたことを思えば、「国民総ぐるみで」というのはちょっ
と言い過ぎだが、この反対の声も、結局のところ原発再稼働を阻止する力
にはならなかった。
ついつい健忘症に陥りがちな我々。ーーそんな我々への自然からの警告
が、このたびの西日本の大雨だったのではないか。被災者の方々にはいさ
さか不謹慎に聞こえるかも知れないが、私はこのたびの記録的大水害を、
そういう自然の警告の声として捉えたいのである。