オウム真理教の元幹部13人の死刑執行に抗議する集会が、きのう27日に
あったらしい。元幹部の弁護人らが、再審請求などの手続き中に死刑が執行
されたことを強く批判し、参加者たちは「内閣や法相はこれを機に、死刑廃
止に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択したという(朝日新聞
DIGITAL 7月27日配信)。
私はこの記事を、「死刑制度の是非」を問う社会運動の、その具体例として
読もうとした。だが、その当てははずれたと言わなければならない。記事は
こんなふうに書かれていた。
「E元死刑囚の再審請求で弁護人だったH準弁護士は「恩赦の出願もしようと
言っていた。非常に残念だ」と語った。H氏は、地下鉄サリン事件の散布役で
唯一、担当した車両で死者が出なかったY元死刑囚との面会も振り返り「人を
殺していない人間を死刑にするのは正義に反する」と声を震わせた。
(中略)
T元死刑囚の弁護人も27日、コメントを発表した。「教団の教義の問題性
に気づき、脱会した以上、再犯のおそれもなかった。執行は暴挙ではないで
しょうか。死刑にする必要が本当にあったのでしょうか」と執行に疑問を投
げかけた。」
つまり、ここでそれぞれの弁護人が訴えているのは、起訴から求刑を経て死
刑の執行へと至る、その手続きに瑕疵が見られるということであって、彼ら
は死刑制度そのものの不当性を訴えているわけではないのである。
にもかかわらず、この集会の参加者たちは、「これを機に、内閣は死刑廃止
に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択した。裁判の渦中にあった
当事者と、批評家的な立場でこれを傍観する第三者との、そのアプローチの
落差がここには見られる。
私も野次馬的・第三者的な立場から、この問題にアプローチすることにしよ
う。この記事を見たとき、私は2つのことを思い浮かべた。
1つは、EUの駐日代表部が加盟国の駐日大使らと連名で、オウムの死刑囚へ
の刑の執行停止を日本政府に求めたとする、先日の報道(毎日新聞7月6日
配信)である。
もう1つは、2016年の10月に日弁連が死刑廃止宣言をだしたとする、
だいぶ前の報道である。この件については、当時 私は 本ブログでも取りあげ、
管見を述べたことがある(2016年10月9日付《死刑は殺しなのか》、
10月12日付《死刑廃止論ふたたび》)。
これを機に、死刑制度の是非に関する私の見解を整理しておきたい。
1.殺人行為を放置すれば、社会の秩序が維持できなくなる。国家は殺人者
になんらかの処罰を行わなければならない。
2.その刑罰は、死刑がふさわしい。殺人者は、殺人を行うことで「人の命
を奪うことを是とする」というテーゼを立てた以上、このテーゼを自分自身
に対しても妥当することとして引き受けなければならない。
3.国家が死刑を執行することで、社会秩序は守られ、被害者遺族の処罰感
情も充足される。
4.ただ、(神ではない)人間がすることであるから、誤認による推断の誤
り(すなわち冤罪)の可能性は排除できない。
5.誤りによって死刑に処された容疑者は、二度と生き返らず、死刑は不可
逆性を免れない。つまり「覆水盆に返らず」である。
ーーこうした見解に基づいて、私は以前、本ブログで次のように述べたの
だった。
死刑制度廃止派の論拠である「覆水盆に返らず」の理屈は、無視できない。
ならば、
(1)凶悪犯は無期懲役にして、かれを永久に社会から排除する。
(2)また、死と同等の苦役をかれに課し、死を上回る苦痛を味わわせる。
(3)その惨めな姿を世にさらすことで、凶悪な犯罪を予防する手立てにすると
ともに、
(4)被害者の遺族には、これをもって加害者に対する処罰感情を宥めてもら
う――。
私のこの代替案は卓抜奇抜なものであり、このアイデアに対して、私は今
でも変える必要を感じないのだが、さて、読者諸賢はいかがお感じだろうか。
あったらしい。元幹部の弁護人らが、再審請求などの手続き中に死刑が執行
されたことを強く批判し、参加者たちは「内閣や法相はこれを機に、死刑廃
止に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択したという(朝日新聞
DIGITAL 7月27日配信)。
私はこの記事を、「死刑制度の是非」を問う社会運動の、その具体例として
読もうとした。だが、その当てははずれたと言わなければならない。記事は
こんなふうに書かれていた。
「E元死刑囚の再審請求で弁護人だったH準弁護士は「恩赦の出願もしようと
言っていた。非常に残念だ」と語った。H氏は、地下鉄サリン事件の散布役で
唯一、担当した車両で死者が出なかったY元死刑囚との面会も振り返り「人を
殺していない人間を死刑にするのは正義に反する」と声を震わせた。
(中略)
T元死刑囚の弁護人も27日、コメントを発表した。「教団の教義の問題性
に気づき、脱会した以上、再犯のおそれもなかった。執行は暴挙ではないで
しょうか。死刑にする必要が本当にあったのでしょうか」と執行に疑問を投
げかけた。」
つまり、ここでそれぞれの弁護人が訴えているのは、起訴から求刑を経て死
刑の執行へと至る、その手続きに瑕疵が見られるということであって、彼ら
は死刑制度そのものの不当性を訴えているわけではないのである。
にもかかわらず、この集会の参加者たちは、「これを機に、内閣は死刑廃止
に向けて方針を転換すべきだ」とする声明を採択した。裁判の渦中にあった
当事者と、批評家的な立場でこれを傍観する第三者との、そのアプローチの
落差がここには見られる。
私も野次馬的・第三者的な立場から、この問題にアプローチすることにしよ
う。この記事を見たとき、私は2つのことを思い浮かべた。
1つは、EUの駐日代表部が加盟国の駐日大使らと連名で、オウムの死刑囚へ
の刑の執行停止を日本政府に求めたとする、先日の報道(毎日新聞7月6日
配信)である。
もう1つは、2016年の10月に日弁連が死刑廃止宣言をだしたとする、
だいぶ前の報道である。この件については、当時 私は 本ブログでも取りあげ、
管見を述べたことがある(2016年10月9日付《死刑は殺しなのか》、
10月12日付《死刑廃止論ふたたび》)。
これを機に、死刑制度の是非に関する私の見解を整理しておきたい。
1.殺人行為を放置すれば、社会の秩序が維持できなくなる。国家は殺人者
になんらかの処罰を行わなければならない。
2.その刑罰は、死刑がふさわしい。殺人者は、殺人を行うことで「人の命
を奪うことを是とする」というテーゼを立てた以上、このテーゼを自分自身
に対しても妥当することとして引き受けなければならない。
3.国家が死刑を執行することで、社会秩序は守られ、被害者遺族の処罰感
情も充足される。
4.ただ、(神ではない)人間がすることであるから、誤認による推断の誤
り(すなわち冤罪)の可能性は排除できない。
5.誤りによって死刑に処された容疑者は、二度と生き返らず、死刑は不可
逆性を免れない。つまり「覆水盆に返らず」である。
ーーこうした見解に基づいて、私は以前、本ブログで次のように述べたの
だった。
死刑制度廃止派の論拠である「覆水盆に返らず」の理屈は、無視できない。
ならば、
(1)凶悪犯は無期懲役にして、かれを永久に社会から排除する。
(2)また、死と同等の苦役をかれに課し、死を上回る苦痛を味わわせる。
(3)その惨めな姿を世にさらすことで、凶悪な犯罪を予防する手立てにすると
ともに、
(4)被害者の遺族には、これをもって加害者に対する処罰感情を宥めてもら
う――。
私のこの代替案は卓抜奇抜なものであり、このアイデアに対して、私は今
でも変える必要を感じないのだが、さて、読者諸賢はいかがお感じだろうか。