論語を現代語訳してみました。
雍也 第六
《原文》
子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒。
《翻訳》
子 子夏〔しか〕に謂〔い〕いて曰〔のたま〕わく、女〔なんじ〕 君子〔くんし〕 儒〔じゅ〕と為〔な〕れ。小人〔しょうじん〕 儒と為る無〔な〕かれ、と。
子 子夏〔しか〕に謂〔い〕いて曰〔のたま〕わく、女〔なんじ〕 君子〔くんし〕 儒〔じゅ〕と為〔な〕れ。小人〔しょうじん〕 儒と為る無〔な〕かれ、と。
《現代語訳》
孔先生はまた、子夏さんに対して次のように仰られました。
子夏よ。お主はその優れた文才〔ぶんさい〕を活〔い〕かしながら、 "君子" とはどういった人物であるのかを世の人に伝ええていきなさい。
けれども、決して "小人" に繋がるようなを伝え方だけはしてはならぬぞ、と。
子夏
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
この語句というのは、最も語訳してみたいと思っていた語句のひとつでした。
さて、この語句の中で最も注目すべきは、なんといっても「儒」という一文字です。この「儒」については、個人的にこれまでもずっと、何かと何かを結びつけるもの、と解釈してきたつもりなのですが、それは、瞬間接着剤のようなものでもなく、紐や釘のようなものでもない、何かしらプルンとした艶とか潤いといった肌触りの優しいものをです。
また、すぐには結びつくことはなくても、永い時間をかけながらゆっくりと結びついていく、という意味においての「儒」という一文字の果たす役割だったり働きだったり、とも捉えることができるのではないでしょうか。
なんにしろ、私はこれまでもずっと古神道と仏教の結びつきの中で、「儒」が果たす役割りや働きを訴えてきたわけです(過去のブログや日々の暮らしの中で)が、こうした観点からも、今回の孔子のいう「儒」については、「君子とは決して貴族階級や上級階級だけのものではないんだよ」ということにも気付かされ、かつ、広く一般庶民にも伝え、顔回や冉雍や冉伯牛のような如何に貧しい暮らしの中にあっても、「君子」を志し学を修めることの大切さを伝えたかったのだとも思うのです。
つまりは、孔子が弟子を抱えるまでの古代シナ人の考え方というのは『君子は貴族階級や上級階級の中から派生するもんだ』が一般化されていたわけですが、顔回や冉雍や冉伯牛という弟子との関わり合いのなかで『君子は一般庶民の中からも派生するんだよ』ということに置き換わっていったのでした。
このことによって、政事に携わるにあたっては、優れた人物であればその出生を問わない、という公平性(平等社会)の概念が芽生えてきます。
聖徳太子は自身が制定した冠位十二階と十七条憲法の中で、この「儒」を巧みに利用することによって、高い道徳心と倫理観のある国・日本を世に知らしめることに成功しました。しかも、大陸の帝国国家の君主はその条文の中身を確認したことによって、たいそう驚き、この日本(倭国)という国は決して野蛮な国ではない、とも思ったことでしょう。
その後は、永く他国からの外圧を受けずに済むことになったのですから、現在でいえば核兵器保有を世に知らしめたことと同じくらいに強烈だったんだろうとも思うのです。
以上のことからも、憲法の果たす役割というのは、国内問題だけにとどまるこはなく、外交や安全保障にも大きな影響を及ぼすことになるのですから、如何に大切なものであるのか、といったことをこれからも深く考えながら、日々過ごしていければな、と思います。
※ 関連ブログ 女、君子の儒と為れ
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考