和貴の『 以 和 為 貴 』

論語:述而第七 〔8〕 憤せずんば啓せず


論語を現代語訳してみました。



述而 第七

《原文》
子曰、不憤不啓。不悱不發。擧一隅、不以三隅反、則不復也。

《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、憤〔ふん〕せずんば啓〔ひら〕かず。悱〔ひ〕せざれば発〔おこ〕さず。一隅〔いちぐう〕を挙〔あ〕げて、三隅〔さんぐう〕を以〔もっ〕て反〔はん〕せずんば、則〔すなわ〕ち復〔ふたた〕びせず。




《現代語訳》


孔先生はつづけて、次のように仰られました。


〈私の教え方としては〉〔みずか〕らが「かくありたいな」と激しいまでに心の内におもうまでは、私からは決して、「こういうふうであれ」などとはいわない。

また、その心の内におもったことを、うまく表現できないときであっても、むやみにことばを求めようとはしない。

そして、ひとつの例(その弟子の足りていないところなど)を示して、そのほかの例を自ら律〔りっ〕しようともしないときは、二度と同じ例を示すことはない、と。


〈おわり〉



《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。

自分なりの語訳でしかありませんが、かなり厳しいですね、孔子の教え方というのは。これでは到底、私ごときでは、弟子としてつとまることはなく、おそらくは、ひと月ももたずに逃げ出しそうな感じです(笑)

さて、この語句の意味するところは、啓と発という語が用いられていることからも、要は「啓発」の反対語として訳せばよいのではないかと思い、「こういうふうにありなさい」といって他人に押し付けることを啓発行為と解している私にとっては、まさに孔子の教え方というのは、「自分なりに学び、自分なりに考え、自分なりに実践しなさい」という、ひとりの人間としての尊厳そのものを大切にした教え方だともいえます。

そしてなによりも、孔子自身がひとりの弟子として、同じように実践し、そんな孔子の後ろ姿というものを、弟子たちはいつも観察していたんではないでしょうか。



※ 関連ブログ 憤せずんば啓せず
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考


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